屋我地地区

屋我地(やがじ)

屋我地地区のあゆみ

屋我地地区には、沖縄貝塚時代早期の墨屋原遺跡(約5,000年前)があり、古くから屋我地島に人が住んでいたことが知れる。その後の沖縄貝塚時代後期の遺跡が、運天原・済井出・屋我・饒平名にある。さらに、近世の村につながるグスク時代から近世にかけての遺跡が饒平名や屋我にある。

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に「屋か島」、「高究帳」には「屋賀島」とでて、各村は記されていない。「由来記」(1713年)の屋我地島には、屋我村・饒辺名村・済井出村の3ヵ村がみえる。饒平名と済井出の2ヵ村は、屋我からの分かれだと伝えられている。

しかし、饒平名や済井出にはそれぞれグスク時代の遺跡があり、それが近世の各村に発展していったと考えられる。屋我地の近世の村々の成立とその関係は、なお今後の研究課題である。

我部と松田の両村は、1736年(元文元年)に今帰仁村の湧川地内(当時の管轄は羽地間切)から移動してきた村で、松田は後に我部に吸収されたとみられる。現在の屋我は、1858年に屋我グシク付近から墨屋原(現在地)に移動している(球陽)。

近世期に羽地間切に属した屋我地島の村々は、明治41年に羽地村の字となり、昭和21年に羽地村から屋我地村として分村した。昭和45年8月1日に屋我地・羽地・屋部・久志の旧4村と旧名護町が合併して名護市が誕生した。

出典:「わがまちわがむら

屋我地の字(行政区)

屋我 饒平名 我部 運天原 済井出

屋我地地区小年表

名護市地域史料目録:屋我地地区