伊差川

伊差川区の現況

世帯数:800世帯 人口:1944人 面積3.14k㎡ (2017年現在)

伊差川は、方言でイジャシチャあるいはイザシキャと呼ばれる。「おもろさうし」に「ゑざしか」とみえる。また、「名護からや羽地伊差川や一里真喜屋兼久までや二里の積り」と歌われ、伊差川が名護からの道程の目安とされていた。

集落は、山麓の下方の丘陵地の緩斜面や国道沿いに発達し、商店や自動車販売店・事務所などが並び、景観が急速に変わりつつある。

主な施設に、北部国道管理事務所・県経済連の名護事業所(農産加工場・バラ飼料中継基地・ミカン選果場)、伊差川市営住宅・羽地農協会館・羽地農協共同集荷施設・羽地農協伊差川支所・Aコープ°伊差川支所・名謹警察署伊差川警察官駐在所・県北部家畜保健衛生所・県北部花井園芸組合名謹支部などがある。

伊差川地区会館 名護市伊差川31番地1

伊差川のあゆみ

先史~古琉球の伊差川

小字フルシマー(古島)に、グスク時代中期から近世にかけての伊差川古島遺跡があり、そこからグスク土器や類須恵器・沖縄製陶器などが採集されている。伊差川の村も、この古島にあったと伝わる。

今帰仁村の運天にある百按司墓にあった弘治13年(1500)頃の木棺に「えさしきやのあし」(伊差川の按司)とあったいわれ、古くから伊差川の名があったことが知れる。

17世紀中頃の「絵図郷村帳」では「いさしきや村」、「高究帳」で「いざしきや村」、「由来記」(1713年)や「l日記」(1731年)では「伊指川村」と記される。また、「高究帳」による石高は117石余り(うち田116石余、畠1石余)で、水田の多い村であった。

伊差川は、名護から羽地以北と今帰仁への宿道(スクミチ)の分岐点となっていた。1742年の「羽地間切図」には、「かね川」という地名が見られたという(宮城真治資料)。

1855年(威豊5)、伊差川と我部祖河の境内に湿地72,057坪余りあり、そのうち35,000坪余りを田にして作付けしたが生産がいくばくもなかった。そこで王府は惣地頭に地勢を巡察させ、渡名喜親方に命じて管理をまかせた。奉行と係、それに筆者を各三人ずつ配置し、1,828間の水路を開削して、水田1,262坪、旱田35,682坪を開き、翌年から作付けをし生産をあげることができた(球陽)。

近現代の伊差川

伊差川の近代の人口の動向を見ると、まず明治13年には戸数81、人口405人(内男205)である。同36年には565人(内男269)で、この間人口は1.4倍に増えている。また、同年の平民人口226人に対して士族人口は305人(57.4%)と、士族人口の方が多い。これは、当時の羽地間切で最も高い比率である(2位は我部の54.9%)。下って昭和14年には戸数143、人口640(内男313)を数え、その60年前と比較して、戸数で約1.8倍、人口で1.6倍の増加となっている。

戦後の人口の動きは、昭和35年に853人、その後同規模で推移したが、昭和49年頃から幹線道路沿いをはじめ事業所や住宅の立地が進み、人口は増加の波に乗った。昭和50年990人、同55年1,325人、同60年1,386人と推移した。世帯数の伸びも並行している。その結果、25年前と比べて、世帯数で2.2倍、人口で1.6倍の増加となった。

明治15年に、羽地小学校が創設される以前から、各村々に寄留してきた士族の学校があった。いわゆる村学校である。伊差川の村学校は座喜味であった。そこでは、四書五経の「小学」や「大学」・「論語」などを学んだという。

「金が-どんどん伊差川珍らさ、元の沖縄に帰らうや-ひや-」と謡われ、金川の銅でできた鐘にまつわる言い伝えがある。その金川銅山を明治26年に訪れた笹森儀助は次のように記している。「金川ノ名称ハ往古ヨリ伝へ来リ。伊差川村馬場ノ北タカ子フキ毛一卜唱へ、カラシノ痕卜認ムヘキモノ猶ホアリ。在昔全所ニテ製煉シタル乎卜想像セラル。然シ旧記ノ拠ルヘキモノ是レナク、発見ノ姓名時代等ハ詳カナラス」(笹森儀助資料)。

金川銅山は、明治20年尚侯爵家が試掘の許可を得て、大阪人の加藤久次郎を雇い鉱物を見させた。銅を含んでいる見込みがあるとして製錬試験をしてみたが、吹子や他の器具が不十分なため溶解せず、確固たる成績が得られなかった。翌21年3月、鉱山家福田誠に臨検させたところ銅の含有が判然とし、同年10月に山本勝太郎外職夫10名余りを引き連れ、探鉱の傍ら精練をしたところ溶解したので、明治22年3月借区許可を得て営業を始めた。

同25年11月には、金川ナシヤー川あわせて44,449坪が許可された。しかし、同25年から減少し衰退しつつあった。その後、10数年は継続していたが、一時休止して大正2年に再び採掘をはじめている。明治22年から同26年までの5カ年間の銅の生産高の合計は、264,676斤である(南島探験)。

大正3年に金川銅山を訪れた独木舟は、「ひとつの灯りを持って殆ど四つ這ひになって新しい洞穴に這入った。約20間のところでふけた二人の工夫がこつこつほってゐる。…一時間もたつとフイゴの音が止んだ。溶けた銅が炉から酌みとられて型に入れられ、三個の製銅が出来上った。…其の表に琉球金川鉱山と銘せられたのがうれしく感ぜられた」と、当時の情況を描写している(戦前新聞集成2)。

伊差川を通るスクミチ(宿道)の一部は馬場であった。明治39年の馬場で、羽地間切の原山勝負が行なわれた。負けた方は、その村の総代を竹馬に乗せて、引き廻し公衆に見せて制裁を科す習慣があった(戦前新聞集成1)。

大正4年、深田区域で沖縄県では初めての耕地整理事業が実施された(総面積33町歩)。その事業で、一毛作地の水田約7町歩が二毛作ができるようになり、増収が見込まれた。昭和のはじめ頃、伊差川の宮城源平氏は豚のバークシャー種、甘蔗の大茎種、水稲では台湾から中茎種や台中65号種などを積極的に導入し、農業改良の先駆的役割を果たし、広く篤農家として知られた。

昭和12年、集会などの集まりで2.3時間の遅れは、日常茶飯事のことであった。各家庭に時計がないことが原因だということで、サイレンが流行した。例にもれず、伊差川でも設置された。5時起床・7時畑へ・昼食・日没・就寝と、村中の人たちがサイレンの音で行動し、時間が厳守されるようになったという。当時の新聞は、「農村のれい明を告げるサイレンの響き」と称賛じている(戦前新聞集成2)。

伊差川の産業の現況を就業者の構成について見てみると、就業者465名のうち、第1次産業17%、第2次産業21%、第3次産業62%という構成で、第3次産業(特にサービス業)の比重が高い。ここ15年の動きを見ると、半ばを占めていた第1次産業(農畜産業)が大きく減少する一方、第3次産業が2倍に伸びた。この間、国道58号線や県道本部循環線の沿線には各種商店や事業所の立地が続いた。昭和45~50年の時期に大きく就業構成が変化したが、昭和50年に第2次産業(製造業)の就業者が急増した背最は何だろうか。

農業について見ると(農業基本統計表参照)、伊差川の農業はこれまでキビと養豚を基幹に、パイン・果樹・野菜類・その他(花き・茶)もそれぞれ比重を持ってきた。水稲は、昭和45年には32.3ha収穫されたが、その後急速に減り、現在では作られていない。ここ15年の動きを見ると、農家数は2割程減り、経営耕地面積は全体として3分の2に減った。作物の収穫・栽培面積では、上述の水稲がなくなった他、パインが半減し、キビも2割減った。しかし、果樹(ミカン)やその他(特に花き類)は大きく伸びている。

畜産は、養豚が中心であったが、近年飼養頭数が大きく減っている。

なお、伊差川地内には、県経済連の農産加工所(パイン工場)・ミカン選果場・バラ飼料中継基地、また羽地農協の事務所・会館・共同集荷施設など、農業関連施設が集中立地している。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の伊差川の御嶽として、「由来記」(1713年)に伊指川之撤(神名コガネモリワカ御イベ)が記され、そこは中尾ノロの崇べ所となっている。さらに、伊指川ノロ火神と神アシアゲがあり、そこは伊指川ノロが司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見るとおりである。

現在、伊差川の拝所として公民館の東方にお宮とビジュルがある。お宮には、イビ・ワキニガミ・ニガミなどが合祀されている。ビジュルは旅の安全を祈願する所である。神役は、戦後一人も出ていない(国頭の村落)。

現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、旧1月10日の初御願、4月最後の子[ね]の日のアブシバレー、5月15日のウマチー、9月9日の御願などがある。

芸能

伊差川には伝統的な芸能がない。ただ、戦後すぐはエイサーや村踊りをしたことがあるという。

文化遺産

伊差川には、指定文化財はないが、金川銅山跡は近世から近代にいたる産業史跡としての価値が高い。

伊差川を通る旧羽地街道に一本の老松がある。戦前は伊差川の並松として多くの老松が立ち並んでいたが、現在はこれ一本になった。胸高直径137cm、樹高10m、推定樹齢240年の堂々とした老松である(名護市の名木)。

ハル石が一基見つかっている。元の場所は不明だが、「め・きちる原」と刻まれている。小字喜知留原は伊差川と名護の双方にあり、また「おもろさうし」にも見える古い地名である。

伊差川公民館の庭に「伊差川世瑞顕彰歌碑」と胸像が建っている。琉球古典音楽野村流第三代の伊差川世瑞は、「声楽譜附工工四」(昭和10年)を著し、古典音楽普及に大きな功績があった。氏は、伊差川脇地頭家の養嗣子となり、青年時代を伊差川で過ごした縁がある(名護碑文記)。

伊差川には、寄留士族の家を中心に貴重な史料が伝えられている。座喜味家史料には、近世王府の学校で使ったと考えられる「稽古案文綴」をはじめ、先祖由来や系図、また珍しい「麻疹伝」や「人体各部名称」「万暦」の本など、19点が伝存される。同じく山里家にも、「三平等稽古案文」(1878年)、「善行記」(1875年)の他、「大学」「小学」「孟子」など、当時の漢文教科書が計16点伝わっている。

伊差川に伝わる伝説の中から、一話を次に紹介しよう。

伊差川の蛙と田井等の蛙

伊差川の蛙は田井等の田を見に、田井等の蛙は伊差川の田を見に出かけた。二匹は途中でばったり会った。

そこで、「リー、この森に登ってみようじゃないか」といって、二匹は森の高い木の上に立って田を見ることにした。

伊差川の蛙は田井等の方に向かって、田井等の蛙は伊差川の方に向かって立った。そしたら、二匹とも、「どっちも同じだな」といって、そこから帰ってしまった。

蛙は立つと後しか見えない。だから二匹とも自分の田を見ていたんだな。

(昭和60年民話調査より)

伊差川の小字一覧

イジャシチャ/イジャシキャー[伊差川/伊差川]

キチュル[喜知留原/喜如留]

アプマター[大又/大又]

プカダ/フカタ[深田/深田]

フルシマー/プルジマー[古島/古島]

ウプグシマ(アピグシマ)[大堂/大堂]

ウーブックヮ[大袋/大袋]

ナハンタキ[仲樹/仲嵩]

ハニガー[金川/金川]

伊差川は9つの小字からなる。集落の中心部はイジャシチャであるが、国道・県道周辺に住宅や諸事業所が広がっている。伊差川の故地は北のフルシマーである。名護と境をなすキチュルは、廃藩置県後那覇・泊の士族が寄留した所で、彼らは喜知留グヮンクーと呼ばれた。プカダは深い田の意味で、大正期に県内で初期の耕地整理が実施された。その西の大堂(ウフドー)はウフ。グシマと通称されている。ナハンタキとハニガーの境を金川が流れ、よく知られた金川銅山はナハンタキ側にある。

伊差川小年表

1844年 なかんたけ山の開地作職を願い出る。

1848年 かねつ杉敷が御禁止敷となり伐採が禁じられる。

1855年 為錦、伊差川・我部祖河両村の潰れ地に用水路を引く。

1887年 9月尚家、金川銅山試掘許可を受ける。

1889年 伊差川馬場で国頭部小学校連合運動会が開かれる。

尚家、金川銅山採掘を始める。

1901年 11月金川銅山再掘。

1906年 伊差川馬場で羽地間切原山勝負を開く。

1913年 10月金川銅山、四国出身渡辺により再び採掘に着手。

1915年 12月深田原耕地整理工事完了(33町歩)。

1926年 伊差川から呉我に通じる道路、拡張され郡道となる(37年県道)。

1947年 行政区山田成立。

1954年 伊差川農協設立。

1980年 12月伊差川ゴミ処分地を閉鎖。

伊差川の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.1 新年挨拶 *古典音楽放送

1.4 第1回新春子供書き初め大会

1.9 子供映写会

1.12 区誌編さん委員会 *本年はあと9回開催(2, 3,7,8-2回、11-2回、12月-2回)

1.17 特別委員会 *適宜開催(3-2回、4月)

2.13 旧12.24のお願

3.1 初お願(旧1.10) *健康願い

3.12 子供会役員会 *本年はあと4回開催(5-2回、6,7月)

3.22 公園設置推進委員並びに特別委員合同会 *本年はあと5回開催(4-2回、5、10、11月)

3.28 婦人会総会

3.31 総会

4.6 でいご子供会総会

4.14 清明祭

5.6 班子供会

4.16 評議員会

4.19 班長会

4.21 総会

4.28 第14回区民運動会

▲山留(由来記)

▲三日タカベ(由来記)

6.9 子供会総会

6.18 アブシバレー(旧4.最後の子の日)

▲年浴(由来記)

7.2 ウマチー(旧5.15)

7.19 4班子供会

7.24 班長会

▲海神折目(由来記)

8.25 老人会

8.29~31 盆踊り大会(旧7.14~16)

▲柴差(由来記)

9.15 敬老会

9.22 米寿祝

▲ミヤ種(由来記)

10.9 老人会

10.22 旧9月9日お願

▲竃廻(由来記)

11.21 芸能関係集まり

▲ヲンナイ折目(由来記)

12.18 班長会

*老人会模合・レク(毎月1,10,20日)

*婦人会エアロビクス(毎週水曜日)