辺野古のあゆみ・小年表

辺野古小年表

1864年 辺野古村の船が中国の折江省定海県に漂着。

1912年 明治天皇大葬の慈恵救済資金をもとに上福地など県有林339町歩余を造林、明治山とする。

1913年4月 明治山を北明治山に改称。

1916年頃 鉱山ブーム。

1917年頃 本部・今帰仁・首里などから開拓者が美謝川に入植を始める。

1918年 大火で27戸全焼。

1921年 世冨慶~瀬嵩間の郡道建設工事始まる。

1937年頃 美謝川(屋取部落)、行政区をつくるほどになる。

1938年6月 辺野古に郵便局開設。

1945年 大浦崎に上陸した米軍は補給基地を設営。

6月、大浦崎に本部半島と伊江島の住民を集団移動させ収容所を設ける。

1956年12月 大浦崎収容所跡を軍事基地とする借地契約を米軍と交わす。

1957年1月 三和相互銀行支店開業。

3月 キャンプ・シュワーブの基地建設工事開始。あわせて辺野古ダムを建設。

7月 辺野古配電水道工事竣工。

7月 沖縄バス久志出張所開所。

10月 辺野古巡査駐在所が落成。

1962年 長島に米軍により灯台が設侭される。

2月 名護保健所辺野古支所設置。

1972年 復帰を境に基地の街衰え始める。

辺野古ダム、県企業局に返還される。

1973年3月 辺野古漁港竣工。

4月 久志保育所開設。

1975年 辺野古ダム、名謹市に移管される。

1979年7月 13年振りに大綱引が復活。

1983年12月 辺野古市営住宅完成。

出典「わがまちわがむら

辺野古のあゆみ

近世の辺野古

辺野古の発祥地は、ウェーザトゥバル(親里原)と伝えられ、そこから辺野古原へ移動したという。

近世の辺野古は、1673年まで金武間切の村であった。1673年に名護間切と金武間切を割いて新しく久志間切が成立すると、辺野古は久志間切の村となった。

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に、金武間切「へのき村」とみえる。「由来記」(1713年)には、「辺野古村」と漢字が当てられる。また、「辺野湖付」ともみえる。辺野古村の脇地頭は、高里親雲上を名乗った。

「高究帳」による石高は、43.7石余り(田40.9石余、畠2.9石余)である。水田の比率が高い村であった。

近世初期に設置されたとみられる「一里塚」が辺野古で確認されている。地元では「イキリヅカ」と呼んでいる。「正保三年琉球国絵図帳」(1646年)に一里塚が記され、その一つが辺野古に現存している。

咸豊3年(1853)、ペリー一行の一部が久志間切に立ち寄ったとき、辺野古崎を廻り天仁屋村、そして国頭間切の安田村の方へ向かって行った記録がある(ペリー来航関係記録1)。

近現代の辺野古

近代の辺野古の人口を見ると、まず明治13年には戸数57、人口258人(内男145)である。同36年には299人(内男154)で、この間に人口は1.2倍に増えている。また、同年の平民人口277人に対して士族人口は13人(5%)と、久志間切では士族人口の少ないところである。

ミジャ川(美謝川、別名福地川ともいう)沿いに、明治中頃から本部・名護方面から移住者が住み、屋取集落を形成した。昭和12年頃には行政区をつくるほどに人口が増えていたが、戦後の土地接収により移住させられた。

大正元年明治天皇の御大葬のとき、慈恵救済資金が出たので明治山の造林をすることになった。大浦楚久・辺野古上福地原・久志福地に造林し、その造林地を明治山と改称した。翌2年に辺野古・大浦にある県有林明治山を北明治山、久志を南明治山と改めた(戦前新聞集成1,2)。

「琉球藩諸調書」(明治6年)に辺野古村と大浦村間は、渡し舟があったと記し、その渡し舟は郡道ができるまで利用された。大正3年に、久志青年会は瀬嵩から大浦を経て名護の世冨慶までと、辺野古から世冨慶に通じる二線を改修しようと踏査したことがある(前掲書)。郡道は、同10年に至って開通した。

沖細戦末期、大浦崎(辺野古崎、現キャンプ・シュワーブ米軍基地)には、今帰仁・本部・伊江の住民約4万人が収容された。昭和20年の11月にはその大半の人々は帰村したが、同21年1月、まだ1,201人の人が残っていた。辺野古でも、既に中南部などからの疎開・避難民の帰村が進んでいたが、同月の人口は1,086人である。中南部の人々もそれぞれの故郷に帰付して、地元ももとの状態に戻った翌22年10月には、142戸・612人を数えた(久志村誌)。

昭和32年から、旧大浦崎収容所跡区域に米軍マリン隊基地(キャンプ・シュワーブ)の建設が始まった。それに伴って辺野古集落の東側台地に、各種業者や商店・飲食店が立ち並び、「基地の町」ができた。また、沖縄バス久志出張所や警察派出所・名護保健所辺野古支所なども開設された。

出典:「わがまちわがむら