宇茂佐の人口と産業

宇茂佐は、屋部地区では最も人口が急増したところで、また現在同地区で最大の人口規模をもっている。戦後の人口の動向を見ると(推移グラフ参照)、昭和35年には114世帯・561人であった。その後、人口は昭和50年頃までの15年間は500人台で推移し大きな変化はなかったが、同51年以降は毎年平均130人程増えてきた。それは、うんさの森市営住宅(昭和51年入居)や一般住宅の建設に加えて、教職員住宅・県職員住宅、さらに老人ホームかりゆしぬ村・療育園などの諸施設があいついで設立されたことによる。また、近年宇茂佐土地区画整理事業(昭和60年)の竣工、そしてカルチャーハイツや県営住宅が建設され、宇茂佐区の人口増加は今後とも続くと思われる。昭和60年現在1,987人を数える。25年前に比べて3.5倍にも増えている。世帯数も、人口と同じように推移している。昭和50年頃まで徐々に増加してきたが、同51年に急増し、現在654世帯を数える。25年前に比べると5.7倍の伸びである。

現在、志味屋原の丘陵地には市環境センターや県営住宅、老人ホームかりゆしぬ村などが建ち、カルチャーハイツ名護などの住宅地の造成も進んでいる。また、東兼久原には市営住宅が建ち、さらに東側の宇茂佐原から宮里にかけては、土地区画整理事業が実施された。昭和55年に認可された同事業は、土地の有効利用と宅地供給を目的に組合を設立して実施された。宇茂佐の宇茂佐原・東兼久原の一部と宮里の大瀬原(ポーシー)がその区域で、実施前はほとんどが粗放地であった。昭和60年の同事業の完了により、名護バスターミナル・総合事務局北部総合庁舎などの公共施設をはじめ、店舗・住宅が急速に建ち、市街地の一角となった(翁長良明:名護碑文記)。

宇茂佐の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者741名の内、第1次産業8%、第2次産業18%、第3次産業74%という構成で、第3次産業に従躯する人が全体の4分の3を占めている。この構成は、昭和50年頃に定着した。それは、ここ15年急増した就業者(4.2倍)の大部分が第3次産業に従事したことによる。

その第3次産業では、サ-ビス業(54%)と卸小売業(22%)が多く、公務(12%)・運輸通信業(10%)がそれに次いでいる。第2次産業では、製造業に従事する人がやや多い。

農業は僅かの比重しかもたないが(農業基本統計表参照)、現在25戸の農家で14haの経営耕地を有している。作物はキビが中心で、パイン・野菜類がそれぞれ1.7ha程栽培されている。

出典:「わがまちわがむら