内原

内原区の現況

世帯数:79世帯 人口:182人 面積0.76k㎡ (2017年現在)

内原は、戦後間もない昭和22年8月に、我部祖河の久場又原、古我知の徳川原・長又原区域に行政区として成立した。山原では数少ない戦後の「開拓部落」である。

内原の土地は、戦前の武田薬草園の跡地を買い上げたものである。集落は、内原ダムに至る広い谷あいの低地に、昭和22年当時、家屋番号1~27号までを付し、抽選によって27世帯が入植して成立した。戦後純農村として生きてきたが、近年はやや変わりつつある。

内原地区会館 名護市我部祖河1193ー2

内原のあゆみ

昭和3年、武田製薬(在大阪)がコカ栽培を目的に、我部祖河ウェーキの湿田を中心に約48町歩を買い取り、同4年からコカの栽培を始めた。戦後の昭和22年、軍政府開拓庁の指導で、その土地に羽地村各字から27世帯が入植した。いわば“合衆国”であった。入植と同時に土地開拓組合が組織された。米穀生産が目的であったので、すぐ内原ダムの工事が着手され、内原の人々も工事に出た(昭和23年5月完成)。このダムは、戦後県内で第1号の農業ダムである。

昭和27年には土地改良組合が結成され、武田製薬との土地売買交渉が始まった。4年を経た同31年に契約が成立し、当時の120万B円(1万ドル)を支払った。

開墾が一段落すると、内原は1町歩農家となり、当時の羽地村では群を抜く経営規模であった。村の共進会では常に1位を競ったという(内原のあゆみ)。

戦後の人口の動きは、入植当時の昭和22年は199人、同35年に177人、その後小さな増減を経て、昭和60年には124人を数える。入植時に比べて4割程減少したことになる。一方、世帯数は、昭和35年(28世帯)以後少し減ったが、同50年以降徐々に増え、現在36世帯である。

内原の産業の現況を就業者の構成について見ると、就業者67名のうち、第1次産業52%、第2次産業9%、第3次産業39%という構成で、第1次産業(農畜産業)が半ばを占めている。昭和45年以降、第1次産業就業者が減っていたが、近年は再び増えている。

農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、内原はこれまで養豚とキビが基幹であった。ここ15年、農家数は27戸から22戸へとやや減ったものの、専業農家は変わらない。しかし、経営耕地面積や収種・栽培面積は全体としてそれぞれ約3分の1に激減している。これは、昭和50年までに水稲が消えたことの影響が大きい。近年は、野菜類や施設園芸が伸びつつある。

畜産は、これまで養豚が主力で、一時期は2,000頭規模で飼養されていたが、最近はずっと減って400頭を下回っている。

伝統文化

戦後に成立した字であるため、拝所や伝統的な祭祁および芸能はない。夏の盆踊りは、公民館広場にやぐらを組んで区民が楽しんでいる。

文化遺産

内原には、指定を受けた文化財はない。前述のように、内原一帯は戦前武田薬草園として知られた。今は、コンクリートの倉庫や用水溝にその跡を留めている。なお、内原の公民館に伝存される「羽地薬草園関係評類」(1947年)は、戦前の武田薬草園の土地を地元が買い上げていく過程を記録した貴重な公文書綴りである。今一つの「薬草園事件記録」書類は、初期に発生した焼き打ち事件に関する当局の記録である(内原のあゆみ所収の目録参照)。

昭和59年には、入植から現在に至る内原の歴史を記録した字誌「内原のあゆみ」が編集・出版された。

内原小年表

1929年 武田薬品、我部祖河の久場又原、古我知の長又原などを買い取り、コカ等の栽培を始める(~45年)。

1947年 内原に羽地村出身者27名入植。8月、内原区成立。

1948年 2月養豚組合結成。

5月内原ダムエ事着工。戦後県内第1号のダム。

1951年 用水路をコンクリートに作り替える。

1952年 11月内原土地改良組合設立認可。この年より、武田薬品と土地の売買交渉に入る。

1956年 12月武田薬品と内原土地改良組合との間で土地売買契約成立。

1957年 10月農研グループ設立。

1962年 8月水道完成。

1964年 2月水稲箱苗代を始める。

琉球政府指定パイロット地区事業による排水路工事竣工。

1966年 10月公民館落成。

1970年 換地事業(6ha)。

1973年 9月ダム底樋改修工事竣工。

1975年 市の水道導入。

1980年 1月内原入口より公民館に至る道路拡張。

1984年 3月『内原のあゆみ』刊行。