オランダ墓

オランダ墓

種別:史跡

指定年月日:昭和58年3月23日/市指定

所在地:運天原848

(説明)

屋我地島運天原の北西の岬にオランダ墓と呼ばれる墓があります。運天原の船揚場から北に約300m波打際を歩くと、セメントの階段があり、そこをあがるとオランダ墓です。オランダ(ウランダ-)とは、近世において西洋人を指した表現で、オランダ墓に葬られているのはフランス人です。墓は、大岩の下に北西に向けて亀甲墓風に造られ、二基の墓碑(各縦75cm、横51cm、厚さ8cm)がおかれています。右側の墓碑は4つに割れていますが、「大彿朗西国戦船彿肋特格阿巴特爾 老将貴大爾聖号方済各加略之墓 救世1846年儒安月20日病故」とあり、左側の碑には、「大彿朗西国戦船歌爾勿特未客多利阿斯 老将撤虜 聖号亜各伯之墓 救世1846年儒安月11日病故」とあります。

1846年6月6日、フランスの旗艦クレオパト-ル号、サビ-ヌ号、ビクト-リアス号の3隻は運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。7月5日まで碇泊しましたが、拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。その約1ヶ月の間に、この墓に眠る2人、方済各加略と亜各伯(フランス呼称は未詳)は病気(一説にはハブに咬まれて)で亡くなり、ここに手厚く葬られたのです。

墓碑は、ニ-ビ(砂岩)に立派な様式と文字で刻まれていて、恐らく王府が関わった仕事ではないかと思われます。この墓の管理は今帰仁間切(運天)が行っていましたが、戦後は運天原の人々が毎年12月24日に祭っていました。