饒平名のあゆみ、小年表

饒平名小年表

1870年頃 饒平名村学校開設。首里の士族平安名のタンメー。

1903年 松田重助外5名ハワイへ移民する。

1904年 日露戦争で玉城長三郎戦死。

1906年 字事務所新設。 青年会結成。

1911年 饒平名村内道路2間幅に拡張整備。

1914年3月 松田重助ハワイより帰り大農式でキビを栽培、本年200挺余りを産出。

1916年 向上会結成。

1919年 動力圧搾機製糖場を武田に造る。

1920年 護岸工事。

1931年 杣山・浜苗代が行政区運天原となる。

1936年2月 羽地大川工事作業の帰途、我部青年団の伝馬船転覆、

饒平名青年団全員を救助する。

1942年 50トン製糖場を運立に設ける。

字事務所兼共同売店開設。

1944年10月 10・10空襲の際、運天港海軍基地攻撃の余波を受ける。

1957年 今帰仁村呉我山からパインの種苗を購入し、

杣山1,500坪を開墾しパイン栽塘を始める。前後して稲作は消滅。

神アシアゲ建造する。

共同売店を新築移転する。

1961年 饒平名長生会結成。

1971年 饒平名の大堀、済井出の九年尺・深田の区域で

沖縄農業開発実験調査地区構造改善事業着手。

11月 「こどもあそびひろば」を区民協力して造る(924㎡)。

1972年 県営畑地帯総合土地改良事業着手。

8月 新公民館竣工(165㎡)。

8月 『饒平名郷上誌』(仲宗根重吉著)発刊。

出典:「わがまちわがむら

饒平名のあゆみ

先史~古琉球の震平名

集落背後の丘には、饒平名シマヌハー御嶽遺跡群がある。切り通しの両側には貝塚の厚い層がみられる。グスク時代前期から近世にかけての遺跡である。饒平名は、屋我からの分かれだとの伝承があるが、グスク時代からすでに人が住みついていたことがわかる。それが、近世の饒平名村につながっていくのかはっきりしない。もう一つ、東寄りの海岸に面してナンマー貝塚がある。貝塚時代後期に相当し、土器片や貝殻などが採集されている(名護市の遺跡2)。

近世の饒平名

近世の饒平名は、羽地間切に属する村である。17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」に村名は出てこない。「由来記」(1713年)で初めて饒辺名村と出てくる。屋我村からの分かれだと伝えられる。

1868年(同治7)の夏に中国から天然痘にかかった役人が当地にきて、種痘を続けて接種させ、すでにかかった者が再染するかどうかを試し、一度かかった者は再発しないことを確認している(球陽)。また、「屋我地郷土誌」(1975年)には脇地頭の宇久親雲上が種痘によって天然痘に苦しむ人たちを救った伝承を記している。

近現代の饒平名

明治14年の上杉県令「巡回日誌」に饒平名についてふれている。屋我と饒平名に水田があり、水は皆水庫から引いている。一、二の農家を巡視したところ、道路の修繕は行き届き、奇麗に掃除がされていた。農夫の松田孫助の家で休憩したが、門は南向き、笹の生垣があり、床に孝の字の賛を掛け、傍らの板壁に宜野湾朝保の福禄寿の和歌を掲げてあった。その外に許彰寿、および端月の書を掲げてあった。士族渡久地喜意の母ウシは、90歳になるが容姿衰えず、白衣の外衣を着て、子や孫を合わせて3,40名いる。そして、褒美を戴き笑って拝謝した。また、ノロクムイ2人も拝謝し一人は40歳、もう一人はつつましい11歳の乙女。二人とも白い外衣を着て、東京団扇を携え、神歌を唱え豊年および人友の長寿を祈るという。その下に根神がおり、祭祀を助けるという。

明治の初期、饒平名では首里出身の士族(平安名タンメー)に家・屋敷地を与え、村学校を開き読み書きを教えたという。明治20年10月、群松(ブリマツ)Iこ屋我地尋常小学校が設立された。村の組織は、明治38年に6つの組がつくられたが、のち人口の増加で8組になった。現在は12班に編成されている。

饒平名に自転車が入ったのは明治40年頃で、馬場で試乗された。昭和3,4年に屋我地一周道路が開通し便利になった。昭和11年屋我地郵便局が開設、昭和15年に電信電話も開通した。昭和6年饒平名から小字杣山・浜苗代・運天原・運堂、我部から大池をわけ行政区運天原が分立した。

戦後昭和28年には屋我地大橋が架設され本島と道路がつながり、バスが運行するようになった。同42年に、すでに使われなくなっていた塩田跡地を埋め立て屋我地村記念運動場をつくった。昭和45年には、海峡を越えて今帰仁村湧川から送電線が引かれ、電化生活がはじまる。

出典:「わがまちわがむら