数久田

数久田区の現況

世帯403 人口915 面積5.51k㎡(2017年現在)

数久田[すくた]は、方言でシッタと呼ばれ、その名は湿地帯に由来するという。西は名護湾に面し、南には辺野古岳(303m)と久志岳(335m)がある。数久田川の中流の轟の滝(数久田滝ともいう)があり、かつての名所として知られる。

集落は、数久田川下流の海岸に近い低地に形成され、碁盤目状の密集した集落をなしている。かつて集落は、道路を挟んで海に面していたが、昭和50年の海洋博覧会のとき国道58号線の拡張工事がなされた。それで、約4,000坪の埋立地ができ、集落は海岸から離れて内側に位置するようになった。

主な施設に、数久田体育館・数久田野球場・轟の子保育園などがある。

数久田地区会館 数久田964-1

数久田区のあゆみ

先史~古琉球の数久田

数久田には、これまでのところ先史時代の遺跡は確認されていない。轟の滝付近の松堂が古島と伝えられる。尚真王の時代(1477~1526年)に各地の按司が首里に集居させられて、ナングシク(名護城)にいた按司がいなくなり、その一族の一部が数久田に移り住んだという(名護六百年史)。

近世の数久田

近世の数久田は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「すくた村」とみえる。「由来記」(1713年)から、「数久田」の漢字が充てられる。

「高究帳」には隣接する「よふけ村」と併記され、両村を合わせた石高は62石余り(田60石余、畠1石余)である。圧倒的に水田の多い村であったことが知れる。

轟の滝は、古くから知られていた。「中山伝信録」(1721年)に「轟有り」とみえ、また数久田村は松堂村と呼ばれていた。なお、当時脇地頭になると松堂を賜る習わしとなっていたとみられる。後の同治4年(1865)と同6年に名護間切数久田地頭職を賜った呉健慎

(譜代三世舒厚)と呉宗仁(四世舒仁)は、松堂の名を拝謝されている(譜代呉姓家譜)。

乾隆5年(1740)の夏、近世の沖縄を代表する文人安仁屋賢孫(1676~1743年)は、轟の滝の景観を「岩がねの松の梢をくくりきて 流れたえせぬ千代の滝津瀬」と和歌に詠んだ。また、「夏やおしつれて 浮世名に立ちゆる数久田轟の滝に遊ば」と、詠み人知らずの琉歌がある(名護六百年史)。

嘉慶9年(1804)には、尚灝王[しょうこうおう:第17代国王、1787-1834]が納涼殿を建てて巡遊したと伝えられ、ミジチャ原に建てたことからミジチャの御殿と呼ばれるようになったという(前掲書)。

近現代の数久田

近代の数久田の人口を見ると、まず明治13年には戸数134、人口692人(内男372)を数えた。同36年には777人(内男416)で、この間に人口は1.1倍に増えている。また、同年の平民人口733人に対して士族人口は52人(6.6%)であり、当時の名護間切では士族人口の割合が最も低い村であった。

明治14年上杉県令らが巡視した時、「数久田村ヲ過グ、村ヲ難レテ、水田蕪圃多シ」と記し、また県令に随行した秋永と護得久・三俣の三氏は轟の滝で歌を詠んだ。護得久氏の和歌一首を紹介すると、「轟の滝のしら糸繰かえへし 見るもめつらし滝のしら糸」と詠んでいる(巡回日誌)。明治36年の新聞記事に、「名護へ旅行するなら是非数久田轟を見るべし」と報じられ、県内で名高い滝として知られていた。その轟の滝は、昭和28年名謹町立公園に指定され、ブロック建ての休憩所や養殖場が設けられ、訪れる観光客も多かった。しかし、近年になると上流域の開墾などのため水量がめっきり減っている。

戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、昭和35年には187世帯・1,092人であった。人口は、その後昭和44年にかけて1,206人まで増加したが、同45年から48年にかけて減少した。それ以降は大きな変動はなく、昭和60年現在1,075人を数え、25年前と同規模となっている。一方、世帯数は僅かずつ増え続け、現在278世帯を数える。ここ25年間に約1.5倍に増えた。

名護の七曲がりの一部をなしていた数久田海岸は、昭和50年の海洋博覧会に向けた道路拡張工事で埋められ、かつての七曲がりの美しい風情はなくなった。

数久田の南東に米軍のキャンプ・シュワーブ演習場があり、昭和53年に久志岳を越えて数久田海岸に105mm高性能溜弾砲が落下したり、同54年には数久田開墾地の養豚用水タンクに機関銃弾が当たるという事件が発生し、大きな基地問題となった。数久田の産業の現状を産業別就業者の構成で見ると(同表参照)、就業者367名の内、第1次産業12%、第2次産業45影、第3次産業43%という構成で、第2次産業(特に建設業)の就業者が多い点に特色がある。

ここ15年、第1次産業(農畜産業)は大きく減ったが、その農畜産業について見てみる(農業基本統計表参照)。数久田の農畜産業は、パインと養豚を基幹としてきた。この15年間で、農家数は4割に減り(第2種兼業農家に顕著)、経営耕地面積も全体として半減している。作物はパインが面積の88%を占め、キビ・野菜類などは僅かである。畜産は養豚が中心で、一時期1,500頭まで伸びたが、最近は900頭規模で飼養されている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御撤として、「由来記」(1713年)にカミネ嶽(神名イベヅカサ)が記される。祭祀場として神アシアゲもあり、そこでの祭祀は名護ノロが司った。

現在、公民館の向かいに神アサギ、その裏に拝所があり、以前このあたりに御獄があったという(国頭の村落)。集落の南、川のほとりにケンチャー、川を渡った利儀原には旅立ちの時に拝んだビジュルがある。集落の後方の山すそには、ヒヌカンヤマとムンキナー、そしてヤマガー・イーガー・イジミガーという拝井泉がある。数久田川をさかのぼった所にも拝所があり、さらに奥にはミーウガンという拝所もある。

戦前までは、男神1人を含む6人の神人がいて、その他に各門中から1人ずつカミングヮが出ていた。現在、神人は4人。根神はニガミヤーから出ている。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1月1日の初ウガン、3月3日の浜清明祭、4月のムンキナーミーウガン、アブシバレー、5月のウマチー、6月のミーウガン、ワラピミキウガン、8月の豊年祭、10月の火の御願などがある。

芸能

数久田の公民館は、アサギに向かい、1階の前半分が豊年踊りの舞台となる。踊りは、旧8月9日・11日・12日の3日間行なわれ、9日のスクミの日には、根神と棒方が村の後方の拝所に行き、神を迎える。3日間とも道ジュネーが行なわれ、公民館に戻って棒が演じられる。舞台では、まず総踊り、そして長者の大主が出る。踊り手は青年会が中心となり、花形は高平良万才と松竹梅である。最後に組踊を演じ、再び棒方が出て旗頭を倒す。組踊は「本部大主」「久志の若按司」「高山敵討」などを得意とする。加那ヨーは「ウチグミ加那ヨー」といい、独特の手を持っている。エイサーは80年くらい前に途絶えた。

文化遺産

轟川(数久田川)の河口から1.3km上流にある轟の滝は、前の「あゆみ」の項で述べたように、王府時代から名勝として知られてきた(昭和31年2月22日県の名勝に指定)。一帯の山地は千枚岩からなるが、ここは石英斑岩(火成岩)が貫入している。石英斑岩は千枚岩に比べて硬いので、川の侵食の差によって、高さ約28m、滝壷の幅1.6m、深さ1.5mの轟の滝が形成された。

数久田に関する伝説

数久田ウェーキと牛盗人

数久田の小字一覧

シッター/シッタバル[数久田原/数久田]

メーブクル/ナハク[前袋原/前袋]

サーマク[佐安原/佐安]

クニンドー[九年迫原/九年迫]

プクジー[福地原/福地]

トゥドゥルキ(バル)[蹄木原/締木]

メーウラー/メーウラ[前平原/前平]

リーギ(バル)[利儀原/利儀]

ユナジャキ[与那崎原/与那崎]

ピラーシ[平良石原/平良石]

ポーシジ[大筋原/大筋]

数久田は11小字からなる。集落内はムラウチと呼び、後方の丘をサンジナ・シリウラ・エーマチと称す。数久田川を越えたメーウラー(前平原)はシリウラと対する。メープクルは戦後すぐまで良田であった。許田の長浜原(別名フィラシ)と境を接するのがピラーシで、かつてこの海岸の板干瀬の切石を墓石に使った。

数久田小年表

1804年 尚灝王、轟の滝近くのミチジャ原に納涼殿を建てる。

1909年3月 学事奨励会開催。

1913年10月 山火事起こる。村有林大筋山100余町歩焼失。

1916年 轟に小屋新築の計画あり。

1952年4月 職を水源に簡易給水道通水。

1953年6月 数久田橋竣工。

1957年7月 数久田・世冨慶町有林軍接収予告。

7月 職観光道路竣工。

9月 大暴風雨のため数久田・喜瀬の家屋80戸倒域。

1959年8月 数久田簡易水道落成。

1960年7月 大筋山9年前払い受領。

1975年 国道58号線整備拡張事業で海岸埋立て、野球場完成。

1978年4月 米軍キャンプ・シュワーブ演習場より105ミリ砲弾が数久田海岸に落下、

5月 抗議の市民大会を開く。

1979年8月 米軍の機関銃弾、開墾地の養豚用水タンクを直撃、3日抗議の区民大会、13日市民大会を開く。

1985年6月 数久田区営体育館落成。