古琉球の成立と展開

古琉球の成立と展開

農業の導入と地域社会の形成

10~12世紀頃になると、沖縄・山原の生活と社会・文化は大きく展開を始める。おそらく本土(九州地方)の直接的な影響を受けてであろう。新しく米や麦・粟などの穀物の栽培(農業)が始まり、その道具として鉄器が導入され、日常の生活用具である土器も形や機能を大きく変える。生活用具の一部は、例えば奄美の徳之島から須恵器(すえき)を、また中国から陶磁器を求めるようになった。

新しく穀物農業が始まったとはいえ、眼前に広がるイノーは変わらず魚介類の豊かな海の幸を提供してくれた。この時期、人々は海岸から丘陵や台地に住む場所を移す。それは、外からの新しい時代の波、つまり交易と侵略に対応するためであったと考えられている。各地のグスクに立ってみると、海原が近く遠くに見晴るかすことができる。 海のかなたを監視できる位置に人々は住む場所を選んだ。谷間や低地での米づくりや台地での畑作は、家族をこえた共同作業を必要とし、生産が増えるとともに分配や貯蔵をめぐる協議も必要となる。小さな地域社会と指導者が生まれてくる。農業とともにその場所に定着し、集落(地域社会)を形成していく。

古琉球500年一琉球文化圏の形成

12世紀から始まるこのような動きは、北の奄美から沖縄・宮古・八重山でも同じような傾向をたどる。人々の移動と交流のなかで言語の共通化が進んだと考えられるが、穀物農業の普及、グスクの成立、須恵器の流通、世界観の共有など、1609年までの古琉球500年において、人々は共通の経済圏・文化圏(琉球文化圏)を形づくり、現在の沖縄文化の基層をつくった時代であった。

名護市の小規模グスク

各地に、のちに「グスク」と呼ぶ空間・施設(集落・御嶽・拝所・城)が造られた。特に中南部地域ではグスク(集落)の分布は多く、現在の村落の数をこえるグスクがつくられた。一方、山原は中南部に比べて数はかなり少ないが、名護市域でも30カ所以上この時代のグスク遺跡が見つかっている。名護湾地域では、宇茂佐古島・宮里古島・大堂原[うふどうばる]などの遣跡、羽地では源河・真喜屋・仲尾次・仲尾・田井等・川上・振慶名・伊差川など、屋我地では饒平名や屋我、東海岸地域では久志・辺野古・汀間・安部・嘉陽・天仁屋で古琉球のグスク遺跡が見つかっている。これらの小規模グスクは当時の集落と考えられ、小高い、多くは南向きの場所に立地し、近くに稲作ができる低地を抱えている。これらの集落は、近世期に下の低地・砂地に移動し、元の場所を御嵩として位置づけつつ近世の村そして現代へと展開していく。グスクに御嶽(聖域)がともなうのは、このような歴史的起源と背景があるからである。