三原 アブマタ、カヨウマタ

アブマタ/カヨウマタ

アブマタはアブマタ川(福地川)に沿った奥深いマタで、平地はごくわずかしかない。首里などから移住してきた人たちが戦前、三十戸ほど散在していた。 カヨウマタでは、汀間川上流のカヨウマタ川とその支流のフェーマタ沿いに十戸ほどが点在した。首里から北谷などを経由して入植した人たちで、戦前は嘉陽ムラの夜の集まりにも山を越えて往来したという。 川や人家に沿う小さな細い道が、何度も川を横切っていた。このため大雨がふれば学校にも行けなかった。タマタ(二又)やカヨウマタにかかる橋は当時はなかった。 川沿いのわずかな平地に水田はあったが、水が引けない田ではサトウキビをつくることもあった。アブマタの水田では換金作物としてビーグ(い草)をつくるところもあり、よい品質だったので売れ行きはよかった。また、カヨウマタにヌールブックという水田があったという。カンダマタにはわずかな棚田もつくられた。 おもにイモをつくる段畑もあったが、カヨウマタでは急斜面なので少なかった。山の猪防止には「ヤマシシのシーミ」といって猪がいやがるものを置いたり、嫌いな匂いをつけたりしたが、効き目はあまりなかった。 山仕事は、馬が歩ける範囲で薪木を採った。底仁屋や源河の手前まで行くこともあった。薪木のうちでも瓦焼き用の薪木は「ミシジャー」といい、直径七、八センチの琉球松を三尺ほどの長さに揃えて出荷した。三本束で二銭だったという。普通の燃料用の薪木は一束六、七銭だった(昭和十年代)。アブマタの奥にキーシンダの場所があり、その上の山の頂上をシンダンチヂといった。そこはみはらしがよく、沖縄島中部の石川岳まで見通せたという。 サーターヤーの初期は、アブマタの奥にあった川の水を利用した水車式だった。ここでは、昭和初期まで読谷山種の細いサトウキビを使っていた。キビの品種が太いものに変わると水車式では絞り切れず、牛車式になった。これ以後のサーターヤーはアブマタ奥、アブマタ手前の川沿い、カヨウマタの三か所にあった。アブマタでは何年かの順番でサーターヤーを移動したという。製糖は昭和十四、五年まで続き、そのあとは戦時の食糧増産が奨励された。カヨウマタに住むY家は、近所の人を五十銭で五、六人雇い、一日に五挺ほど製糖したという。昭和八年頃から馬車が通れるようになり、砂糖樽を名護に運んだ。

このほか、カヨウマタとフェーマタにそれぞれひとつずつ藍壺があった。大正十一年生まれの人が子供のころ、そのまわりで遊んだ記憶があるが、当時はもう使っていなかった。

戦前、川沿いに青年たちが集まる広場があった。力比べや嘉陽小学校の学芸会の練習などをそこでした。

また、アブマタではほかのマタと同じく、それぞれ自分の土地に墓をつくったが、カヨウマタでは戦前から共同墓だったといい、戦後になって各自の土地に墓をつくるようになったという。ただ、ガンとガンヤーはこのふたつのマタで共同してもっていた。

出典:「民俗3