三原のあゆみ・小年表

三原区 小年表

出典:「わがまちわがむら

1880年頃 廃藩置県後、首里などからの移住者が定着する。

1925年 汀間の志根垣・道垣・ゲーヤ又の3小字を割いて行政区三原が成立。

1944年4月 久志国民学校から久志青年学校が独立し、三原の南風廻原に新設。

1945年 中南部からの疎開者や避難民で人口急増する。8月1445人。

1946年 8月 三原小学校創立。

1947年 安部の福地原、嘉陽の福地原を合せ現在の区域となる。

1954年 12月 三原公民館落成。

1956年 4月 三原井堰工事竣工。

1971年 4月 三原幼稚園開園。

三原のあゆみ

出典:「わがまちわがむら

近現代の三原

三原は、近世には汀間をはじめ安部や嘉陽の村に属す地域であった。明治の廃藩置県後に那覇・首里から、与那原や西原などを経由して移り住んできた士族たちで形成された屋取集落である。

年代ははっきりしないが、道垣原の南西にトウシと呼ばれる暗渠がある。道垣の水田は水源に乏しく荒廃していた。そこで志根垣川境の丘陵の崖石を開削して、用水路をつけ、水の便がよくなり開拓された。また、福地川や慶屋川は大雨があると氾濫し、被害が大きかったフェーマーイ(南風廻)や道垣、それに志根垣などの護岸は、間切時代にブー(夫)で築かれたと伝える(久志村誌)。

大正14年に汀間地内であった志根垣・道垣・慶屋を割いて行政区三原が成立した。戦後昭和22年になって、安部の福地原と嘉陽の福地原を三原区に合わせた。同26年には、地籍字として分離独立した。

三原の戦後の人口の動きを見ると、収容所時期、中南部などからの疎開・避難民で三原もあふれていた。その時期を経た昭和21年1月でも、人口は1,245人を数えた。中南部の人々がそれぞれの故郷に帰村し、地元も落ち着きを取り戻した翌22年10月には、戸数214・人口988人となった。この時三原の人口は久志村で最大規模であった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口の動向は、推移グラフに見るように、同年134世帯。802人である。人口は、昭和45年頃まで800人前後で推移したが、同46年以降は減少傾向となり、昭和60年現在382人を数える。25年前に比べて約半分に減っている。世帯数は、この間ごくわずかずつ減り続け、現在110世帯である。25年前に比べて2割ほど減った。

昭和21年に三原初等学校を創設し、同27年に三原小学校と改称された。同32年に中学校が併置され、三原小中学校となった。同47年汀間に久志中学校を新設し、三原・久志・嘉陽・天仁屋の各中学校を統合した。ゲーヤ又・志根垣又・福地又・嘉陽又からは、川を渡って登校しなければならず、大雨になると登校できず出席簿に「川どめ」と記したという(三原小学校創立40周年記念誌)。

昭和31年に三原井堰を竣工し、風廻(フェーマイ)やクワヒチャモ―に水を供給して水田を潤した。そこは、子供たちの泳ぎ場所でもあった。

風土と歴史

出典:「芸能

風土

三原は、二見以北10区の中央辺りに位置する区で、川・山・海に囲まれた自然豊かな地域である。面積は10.32k㎡と名護市では源河、辺野古に次いで大きく、人口341、世帯数137(2009年2月21日現在)と人口は二見以北10区の中では支所のある瀬嵩に次いで多い。

1879年(明治12)廃藩置県後の寄留人らによって形成されたムラで、集落はシネガチ(志根垣)川、ゲーヤ(慶屋)川、フクジ(福地)川、ティーマ(汀間)川に沿って散在する。水利に恵まれ、久志村では最も水田が多いムラであったが、昭和40年代以降はほとんどがキビ畑に変わった。現在の主な施設に市立三原小学校、久志診療所、三原地区会館(公民館)がある。

歴史

1879年(明治12)の廃藩置県後、首里などからの移住者が汀間の小字志根垣・道垣・慶屋を中心に定着し、この三小字をもとに1925年(大正14)行政区として独立した。三原の名称は三つの原から成立したことに因む。

1944年(昭和19)4月、久志国民学校から久志青年学校が独立し、三原に新設されている。

1945年(昭和20) の沖縄戦では、中南部からの避難民で人口が急増し、8月の人口は1445人を数えたが、その後の帰村により1947年(昭和32)10月には戸数214、人口988となった(『 久志村誌』)。その間の1946年(昭和31)には、三原小学校が創設されている(2009年2月廃校)。

1947年、安部の福地原、嘉陽の福地原を合わせ現在の区域となり、1951年(昭和36)には地籍字として分離独立している。1954年(昭和29) には区民待望の公民館が完成し、2006年(平成18) に地区会館ができるまで、区民の拠り所として使用された。

世帯数・人口の変遷をみると、1960年(昭和35) の世帯数は140、人口は802を数えるが、1971年は各々(昭和46) 125、584、 1985年(昭和60) 110、382と減少している。それ以降は落ち着き、現在までほば横ばいで推移している。