古我知

古我知区の現況

世帯数:138世帯 人口:346人 面積1.97k㎡ (2017年現在)

古我知は、方言でフガチと呼ばれる。フガチの語義は、那覇市の久茂地にある譜嘉地[ふがち]と同様、「外地」の意味とも解釈されている(宮城真治:沖縄地名考)。旧羽地村の西側に位置し、北部は今帰仁村と接する。集落は、本部循環線から奥の方に入ったところにある。

奈佐田川が集落の北を呉我に流れ、下流付近で我部祖河川と合流し、羽地内海に流れ出る。フガチブロー(古我知原)とフナガ(穂長原)は、パニジターブックワ(羽地田袋)の一画をなしていた。今では、水田が見られなくなり、キビや花き園芸の畑に変わっている。

集落は、丘陵地北側の裾と奈佐田川流域の低地に形成されている。古くは、奈佐田川の上流の山あいにあったが、現在地に移動してきたという。

古我知地区会館 名護市古我知321番地

古我知のあゆみ

先史~古琉球の古我知

古我知では、古琉球以前の遺跡はこれまでのところ確認されていない。

近世の古我知

17世紀中頃の「絵図郷村帳」で「こがち村」、「高究帳」では「こかち村」と記される。「高究帳」の古我知村の石高は、92石余り(うち田91石余、畠1石余)で、圧倒的に水田の多い村であった(98.2%)。

蔡温が関与した「三府龍脉碑記」(1750年)に古我地(知)港がみえる。屋部港と古我知港の間の丘を開き水路を通し、船の往来を便利にしてはどうかという運河開削論と、首府を名護に移すという遷都論が王府内部で議論されたことがあった(名護碑文記)。

1858年(威豊8)古我知と仲尾次(仲尾か)・呉我の三ヵ村にある水田は、旱魃に遭うごとに水が枯れた。世英(渡名喜親方)等が水路を開き大川の水を注入した。さらに、その田より小溝を引き(長さ173間)、他の田に水を導入して旱魃から難を逃れた(球陽)。

古我知の奥又原には古我知焼窯跡(昭和47年県指定文化財)があり、近世の窯跡とみられる。お碗や皿・水蕊・耳付壷・すり鉢・厨子甕などの古我知焼の破片が多く採集されている(名護市の遺跡2)。

近現代の古我知

古我知の近代の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数47、人口274人(内男147)である。同36年には386人(内男188)で、この間に人口は1.4倍に増えた。また、同年の平民人口344人に対して士族人口は44人(11.3%)であり、羽地ではやや士族が多いところである。下って昭和14年には戸数58、人口289人(内男135)を数える。その60年前に比べて、戸数で1.2倍、人口では1.1倍となっている。

戦後の人口の動きは、昭和35年に384人で、同40年代前半やや減少したが、後半は増加に移り(昭和50年406人)、以後徐々に減少して、昭和60年には318人を数える。25年前と比較して17%減ったことになる。世帯数は、この間80から93世帯へと増加している。

大正4年に施行された「耕地整理奨励規定」を受けて、同年に古我知・我部祖河・呉我区域の河川と用排水路の実地調査が行なわれた。翌5年には奈佐田耕地整理組合を結成し、まず古我知川を川幅4間・深さ6尺に改修し、続いて翌6年に灌漑排水路および農道を整備した(戦前新聞集成2)。

北西の嵐山に昭和6年癩療養所の建設計画が持ち出され、羽地村あげての反対連動があった。いわゆる嵐山事件である。

昭和15年に県工業指導所で琉球古窯調査隊が組織され、古我知焼の古窯跡の調査も行なわれた。前後して、柳宗悦ら日本民芸協会の調迩団もここを訪れている。

昭和8年に我部祖河と連合して産業組合を設立したが、昭和16年戦時統制下に入り、羽地村全体の統合を命じられ、農業会に編成された。戦後すぐ羽地村農業組合が創設され、昭和29年には字別の農協が設立された。古我知は、我部祖河と共同で「河知農業協同組合」を設立した(羽地村誌)。

戦前の農業は、米作とキビ作が中心であった。戦後も米作が盛んに行われていたが、昭和40年代には姿を消した。

昭和22年8月、古我知の小字トクガーブロー(徳川原)・ナガマター(長又原)と我部祖河のクバマター(久場又原)に「開拓部落」内原が成立した(地籍は未分離)。

古我知の産業の現況を就業者について見てみると、就業者127名のうち、第1次産業50%、第2次産業16%、第3次産業34%という構成で、第1次産業(農畜産業)が半分を占めている。ここ15年の動きを見ると、第1次産業が昭和45年~50年の間に急減したが、その後増えてきている。第2次産業は大きな変化がなく、第3次産業は上の時期に急増したものの、その後少し減ってきている。

就業者の半分を占める農畜産業を見ると、古我知はこれまでキビと養豚を基幹としてきたが、近年は変化しつつある。ここ15年をみると、農家数は2割弱減少し、また経営耕地面横や作物の収穫・栽培面積も全体として4分の3程に減っている。作物で大きく減ったのはパインと水稲である。一方、野菜類や花き類・施設園芸が近年急増しており、販売で野菜農家が第2位になった。

畜産は、ずっと錐豚が中心で、一時期4,000頭規模まで伸びたが、近年は急減している。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の古我知の御嶽として、「由来記」(1713年)に古嘉知之獄(神名アフヤマタケノ御イベ)が記され、中尾ノロの崇べ所となっている。さらに古我知掟神が祭祀を司る碇神火神と伊指川ノロが管轄する神アシアゲがある。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見るとおりである。

現在の御嶽は、公民館の南側の森である。そこには左縄が巡らされ、木の伐採も禁じられている。頂上部に洞があり、クバの木が生える。その森の西側の裾にオミヤがある。オミヤにはヌンドゥンチ・ナハンバーリ・アサギが合祀されている。そのすぐ南隣りにウハマガナシがある。そこと集落をはさんで北東側には旧アサギがある。拝井泉にはシトシンガーがある。神役は、ウッチガミはアガリから、ニガミはグルブンチャとタンパラヤーから出ることになっている(国頭の村落)。

現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、1月3日にハチウガン、旧4月吉日にアブシバレー、6月吉日に六月御願、8月8日に豊年祭御願、10日に八月十日御願があり、10日から11日かけて豊年踊りが催される。また、9月9日にも御願がある。

芸能

豊年踊りは、区民ひろばに仮舞台を造って行なわれる。戦前までは、毎年旧8月8日を正日に4日間、場所を替えて行なわれていたが、今は3年に一度、8日・9日の二日間行なわれる。

棒が有名で、踊りの初めと終りに演じる。舞台では長者の大主・二番扇舞・かせかけなどがあり、中でも「グシクヌメー」は特異である。組踊は、昭和10年頃に一度途絶えてしまったが、「伏山敵討」を得意としていて、最近その復活に力を入れている。

エイサーは15年程前まではやっていたが、今はしない。

文化遺産

奥又原に、近世中期頃に栄えた古我知焼の窯跡がある(昭和47年5月12日県史跡指定)。当時、日常雑器を中心に水甕・壷・皿・碗・厨子甕など30種以上の陶器類が作られていたという。陶土は、付近から採れる白粘土が使われた。技術的には緑や灰緑色の粕薬を布や藁で拭く手法が用いられた。焼成温度も1250度の高温に達していた(名護市の文化財・第二集)。現在、仲宗根隆明氏が古我知焼の再生と現代化に取り組んでいる。

古我知のオミヤには二本の名木が生育する。ひとつは推定樹齢120年、樹高11.5mのクロヨナの老樹である。もう一つは推定樹齢200年、樹高15mに達するリュウキュウマツである(名護市の名木)。

これまで確認された古我知の地域史料は、九年母下屋の茶毘帳21点(1826~1939年)、および「覚」など2点である。宮城真治資料の中の「万書留」(古我知村仲尾親雲上、同治11年)も貴重な史料である。

古我知の小字一覧

フナガ/プナガ[穂長原/穂長]

ニサ[胸佐原/胸佐]

フガチブロー[古我知原/古我知]

トクカーブロー[徳川原/徳川又]

ウクマタ[奥又原/奥又]

ナガマター[長又原/長又]

アラシヤマ/(ナハアラシ)[嵐山原/嵐山]

古我知は7つの小字からなる。集落はフガチブローを中心にニサに広がる。トクガーブローの一部は行政区内原区域。ウクマタには古我知焼窯跡(県指定史跡)がある。今帰仁村と境を接する北西の嵐山(アラシヤマ)の古我知区域を特にナハアラシと呼んでいる。

古我知小年表

1820年 代古我知焼の窯を閉じる。

1858年 水田に用水路をひく。

1916年 奈佐田耕地整理組合を設立(35町歩)。古我知川を改修。

1917年 排水路・農道畦畔を整備。

1930年 5月奈佐田耕地整理組合解散。

1933年 我部祖河と連合して産業組合を設立。

1940年 12月県工業指導所、古我知焼窯跡調査を計画。

1941年 産業組合解散。

1942年 9月山里永吉、再び古我知焼窯跡を発掘調査。

1954年 我部祖河・内原と連合して河知農協を設立。

1972年 5月古我知焼窯跡、県史跡に指定。

古我知の行事・活動一覧 昭和61年1~12月

1.2 河知交通安全友の会祈願祭

1.3 ハチウガン *健康祈願、前年生れた子供の祈願

13歳生年祝い

1.15 審議委員会 *ほぼ毎月開催

1.16 ジューロクニチ

1.17 戸主会

3.29 老人会総会

4.12 会合

4.19 青年と語る会 *4.28にも開催

4.22 婦人会常会 *本年はあと4回開催(5、7、10,12月)

4.27 向上会常会

▲四月アプウガン

5.20 アブシバレー(旧4.吉日)*5、6年前まではこの日に学事奨励会を行った。

5.22 農村集落会議

▲スベド御願

▲三日タカベ(由来記)

6.1 奈佐田川草刈り作業

6.15 花園づくり*老人会・婦人会・子供会

▲年浴(由来記)

7.11 教育懇談会

7.17 青年会会合 *7.31にも開催

7.20 第8回区民運動会

7.22 河知交通安全友の会総会

7.27 教育隣組ビーチパーティー

7.28 老人会 *8.14にも開催

7.30 ヒチュマ(旧6.吉日)

7.31 ルクグヮチウガン(旧6.)

▲海神折目(由来記)

8.1 旧26日御願(旧6.26)

8.5 豊年踊結団式

8.12 旧七夕祭(旧7.7)

8.17 向上会常会

8.28 戸主会

▲柴差(由来記)

9.7 お宮の清掃、舞台作り

9.11 旧8.8豊年祭御願

9.13 ハチガチトゥカウガン(旧8.10)

9.13~14 豊年踊

▲ミヤ種御願

10.11 奈佐田川を守る会 *今月あと2回

10.12 クガチウガン(旧9.9)

▲ タントイ

▲竃廻(由来記)

11.30 奈佐田川草刈り作業

▲火神御願

▲ ウンネー

12.21 戸主会