安部のムラの祭り(年中行事)

安部のムラの祭り(年中行事)

以下は現在のムラ行事に基づくが、かつての様子をできるかぎり復元して記述する。

1月1日 初御願

拝所7か所を巡拝する。

4月吉日 アブシバレー

かつてはアサギで神女たちが祈願し、村びと全員が浜に出て、生れ年の男が嘉陽への登り口近くのハナリワタイの岩から虫を流し、満潮になってから帰った。

5月15日 5月ウマチ

6月26日 6月ウマチ

現在は汀間ノロ参加のもとに、当日ニガミヤー内での御願のあと、その庭で儀礼をおこなっている(ニガミヤー内で「ミチャーシ」「ミチムイ」のウムイを歌い、庭では「カーミヌホーガイ」(漁労儀礼)「舟漕ぎウムイ」(航海儀礼)の儀礼的行為をする。詳しくは『やんばるの祭りと神歌』一四七~一五六頁を参照)が、かつてはアサギマーでこの儀礼をおこなった。

汀間ノロを迎えに行くカゴは普段から字事務所(ムラヤー)で保管した。汀間ノロが通る神道は集落拡大図に示したが、経験者によると、ノロ迎えのとき、汀間ノロ、安部根神を神女たちがとりかこみ、「ウスリヨー」の声とともに鉦が鳴ると一同平伏したという。

ニガミヤー(またアサギマー)での儀礼が終ると、ノロは汀間に戻り、根神、区長は浜に出る。そのあと浜で、綱引き、ハーリー、相撲がおこなわれたが、これは今もおこなわれている。

綱引き用の藁はかつて、各戸から保有する水田面積に応じて何束かずつ徴収された。浜での綱引きは、ムラヤー前の道を境に家々を東西にわけ、東(アガリ)の雄綱、西(イリ)の雌綱でひいた。カヌシチャやイーバルの寄留人も参加し、人数が少ないアガリ組に入ることが多かった。このとき、西が勝つと喜ばれたという。

次のハーリーにはティンマグヮー(小舟)二隻を使い、それぞれヒーヌイ、トモヌイのほか、6名ずつ乗り込んだ。最後に相撲大会がおこなわれた。

7月13、15、16、17日 七月踊り

13日スクミ(仕込み)、15日正日、17日ワカレの日程だが、スクミとワカレはともにアサギマーで東向きにバンクをつくっておこなった。正日の踊りをおこなったあと、夜に盆のウークイをした。16日には集落西端の松並木があった「ヒラマツ(この場所は戦前サーターヤーがあった広場で、戦後になって青年会館や一時期ムラヤーがあった場所である。戦前のバンクの向きは不明。戦後は七月踊りの3日間すべて西向きだったという。)」をウドゥイザー(踊り座)にして一晩中踊った。現在は旧8月15日に、敬老会を兼ねて公民館内でおこなっている。

踊りの正日には必ず最初に、踊り神のウニホーガナシ(鬼の面の神)の道ジュネーをおこなう。スクドゥヌヤー東隅のウニホーヤーで御願をささげ、カジャデ風、上り口説、花風の三曲をその場で踊ってから、旗頭、ウニホーガナシを先頭にして出発する。踊り衣装を保管する屋号ティマヤーグヮー、根神屋でそれぞれ三曲を踊ったあと、旗頭・ウニホーガナシを真ん中にしてガールー(群舞)をする。次にアサギの前、イーヌシマの順にまわる。アサギではガールーだけだが、昔はスーマキボー(総巻き棒)もおこなった。イーヌシマでは三曲とガールーをした。その後ムラウチに戻り、屋号メームイ、イリジョーグヮー、ムラヤー前の三か所でガールーだけをして終った。

8月10日 八月御願

ウガンには汀間ノロが参加し、アサギでおこなわれた(現在はニガミヤーで祈願する)。汀間ノロが安部に来るのはこの八月と六月の二度である。8月10日~15日の期間をヨーカビーといった

(8月10日、11日行事の詳細については前掲仲松弥秀『琉球弧の村落探求』および「南島の国見行事」(『うるまの島の古層』)を参照。それによると、今はなくなっているが、8月10日に各家の門にススキを差した縄を張り渡す柴差行事を、また同日に浜で綱引きをおこなっていたという。)

8月11日 クニヨーテーミー

深夜に、シマの神女だけでイーヌシマからアサギ、ニガミヤーと巡拝し、浜への出入り口のひとつ、カミジョーグチでイーヌシマの方角を拝む。イーヌシマに戻る途中のアジマーでも儀礼をおこなう。集落拡大図にその巡路(神道)を示している。現在では聞くことができない儀礼である。

9月9日 菊酒

現在では七か所の巡拝のみ。

11月10日 キリシタン

現在は七か所の巡拝のみだが、かつては子供が生れない人を木の馬(のちに竹の馬になる)に乗せ、生れた人はサニを結んで供えた。

12月8日 ウニムーチー

現在はニガミヤーで御願をしてから、浜に出てオールー島にむかって祈願する。かつては浜に出る道の三か所、東からカミジョーグチ、ナカジョーグチ、スンガージョーグチに豚骨とゲーナ(ススキ)を下げた左縄を吊した。

出典:「芸能