考古学からみた名護・山原と村の形成

考古学からみた名護・山原と村の形成

水利に恵まれた山原は、最近まで水田地帯として知られていたが、これは畑作主体の中頭・島尻にたいする山原の大きな特徴である。また戦前まで、山原は行政的には国頭郡であり、今の名護市は名護・羽地。久志の三町村に分かれ、その下に各部落があつた。こうした水田地帯としての山原や、国頭郡―町村という地域的まとまりや各部落ができあがったのは琉球王国が成立する以前であった。琉球王国以前の沖縄の歴史は、旧石器時代一沖縄貝塚時代―グスク時代に区分されているが、最近では沖縄貝塚時代については、その前半は縄文文化として理解されるようになってきたし、後半には弥生文化の影響を受けたことも明らかになってきた。

しかし本上では、弥生時代から古墳時代を経て奈良時代に至るまでの間に国家形成の道を歩んだが、沖縄は大和国家の外にあって、原始的な社会が続いた。やがて沖縄でも13世紀ころから農耕と海外交易の発達とともに独自の政治社会の形成にむかった。グスク時代である。グスク時代に入ると、豊かな山林を背景に水利に恵まれた山原では、川沿いの低地で水稲農耕を行なう小さな集落が多数出現したが、これらが今の部落の始まりである。また、これらの集落は、城塞的なグスクを中心に地域的にまとまったが、これが名護町・羽地村・久志付のもとになった。そしてこれらの地域が、今帰仁グスクを中心に政治的にまとめられて北山という小国をつくった。この北山が今の国頭郡の基礎である。

グスク時代の羽地

次にグスク時代について羽地を例にとって説明しよう。グスク時代の代表的な遺跡は城塞的なグスクであるが、羽地には石垣をめぐらした親川グスクがある。他には名護市内では、二重の堀切がある名護グスクがある。この他の遺跡は集落跡と考えてよいが、羽地では水田地帯である羽地ターブックヮのまわりに集中している。これらの遺跡は今の部落と重なっているか、ないしは部落の古島、御嶽、グスクなどの付近にあって、ここから今の部落は発生してきたことがわかる。

ところで、グスク時代の集落はとても小さく、また農業生産力も低いので、一つの集落が独立して暮らすことは不可能だった。そこで、血縁的・地縁的に関係のある集落が、いろいろと共同して生活していたと考えられる。羽地では羽地グーブックヮの集落群が中心となって、さらに屋我地や源河の集落などとも共同関係を広げて羽地一円におよぶ地域的まとまりを形成した。

この地域的まとまりを統率したのが按司であるが、羽地の按司の居城は親川グスクであったと考えられる。同様にして、名護湾岸でも名護グスクを中心に地域的まとまりを形成し、また、久志でも、中心的な城塞的グスクは未確認であるが、やはり地域的なまとまりをつくったと思われる。

こうして、山原の各地域に政治的経済的なまとまりができたが、これらはやがて今帰仁グスクを中心に政治的に統合されて北山という小王国をつくり、中山や南山と対抗することになった。 (筆者・安里 進)