真喜屋

真喜屋区の現況

世帯数:271世帯 人口:590人 面積5.3k㎡ (2017年現在)

真喜屋は、方言でマギャーと呼ばれ、マジャ(真謝)の意味でマージ質の土壌に由来する地名だという。かつて、真喜屋大川と満川との間にはマギャーターブックヮ(真喜屋田袋)と呼ばれる水田地帯が広がっていた。現在では、キビを中心とした畑に変わっている。

真喜屋は、旧羽地村の北東部に位置し羽地内海に面し、また仲尾次と稲嶺に隣接する。羽地内海には、墓の島として知られる奥武島やジャルマ島が浮かぶ。南側には、多野岳を中心とする山々が連なっている。南側の山裾から低地につながる地域と、海岸に近いところに集落がかたまって立地している。

主な施設に、真喜屋小学校・真喜屋運動広場・羽地農協真喜屋支所などがある。

真喜屋集落センター 名護市真喜屋73番地

真喜屋のあゆみ

先史~古琉球の真喜屋

奥武島に沖縄貝塚時代中期から後期にかけての奥武原遺跡がある。そこからは、土器片と石皿と石製の錘などの石器類が採集されている。また、拝原にグスク時代中期から後期にかけての上之御嶽遺跡があり、グスク時代の土器が採集されている。

近世の真喜屋

真喜屋は近世以前からあった村とみられ、近世以降も連続して存立してきた。17世紀中頃の「絵図郷村帳」で「まぎや村」、「高究帳」では「まきや村」と出る。以後の文献では、すべて「真喜屋村」と記される。「高究帳」の石高は281石余り(田266石余、畠14石余)で、羽地間切では一番規模が大きく、また圧倒的に水田の多い村であった。

康照61年(1722)、村は疲弊し真喜屋村の古我知親雲上が各戸に2~3升の米を配給して救済した記事がある(球陽)。また、1796年に加佐名盛原でまぐさを刈っていた農民が落雷にあった記事もみられる(球陽)。

真喜屋の真美田・仲田・前田は旧仕明地で、王府時代から明治中期にかけて真美田屋やタンパラ家などによって干拓がなされたという(小川徹:羽地村真喜屋の社会誌学的研究)。

近現代の莫喜屋

真喜屋の近代の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数154、人口911人(内男448)である。同36年には1,277人(内男625)で、この間人口は1.4倍に増えている。なお、この時期真喜屋が羽地間切で最も人口が多かった(2位は源河1188人、3位は仲尾次1180人)。また、同年の平民人口1291人に対して士族人口は45人(34%)であった。下って昭和14年には戸数256、人口999人(内男430)で、その60年前に比して、戸数で1.7倍、人口では1.1倍の増加を見た。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に959人、昭和40年代前半に急に落ち込み、徐々に減り昭和60年には630人となった。25年前に比べて3分の2に減ったことになる。一方、世帯数の変化はほとんどなかった。

真喜屋のキナバル(喜縄原)は、明治になって開墾が入り、藍作りや炭焼きをして暮らしていた。その多くが寄留士族で、14,5年前まで人々が住んでいた。

大正6年、真葛屋の有志が耕地整理を企画し、150余名の地主で総会を開き、真喜屋大川の改修に伴う潮水侵入の防止および排水についての協議を行ない、マギャーターブックヮの耕地熱理が実施された。昭和8年には産業組合が設立され、同16年まで続いた。

昭和9年に県更正部落の指定を受けて、翌年から実施して活動が実をむすんだ。事業計画の主なものとしては、負債の償還・養畜の増産・稲作の倍増・豚便所の改良・道路改修、製糖場・共同茶園・共同浴場などの建設、生活改善・教育振興などであった。

戦後、昭和22年学制改革(6・3制)があり、学校は稲嶺から真喜屋に移された。同35年に起こったチリ地震津波によって、黒崎にあった真喜屋小学校が津波被害に遭い、その後平田原に移転した。また、真喜屋大橋と屋我地大橋が流失してしまった。津波による死者3人、校舎が全半壊、住家全壊7、半壊10、床上浸水195軒と大きな被害をうけた。

昭和の初めマギャーターブックヮでは、名護ポンアカー種と羽地クロピギーの年一回収穫の在来種が栽培されていた。昭和4年頃、台中65号の新品種が導入されると、二期作が行なわれ5~6倍の収穫が得られるようになった。米づくり時代である。さらに、戦後昭和37年頃日本政府の技術指導による土地の高度利用がなされ、早期栽培の三期作が試験された。しかし、同38年頃からサトウキビブームとなり、水田がキビ畑へと切り替えられていった。

現在の真喜屋の産業を就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者260名のうち、第1次産業34%、第2次産業17%、第3次産業49%という構成で、第3次産業が半分を占める。15年前の昭和45年と構成が逆転した形であるが、この傾向はすでに10年前に定着していた。

3分の1を占める農業を見ると(農業基本統計表参照)、真喜屋農業の基幹はキビと養鶏である。ここ15年、農家は130戸から85戸へと3分の2に減る(専業農家に顕著)一方、経営耕地面積および収穫・栽培面積も全体として半分近くに減った。キビの作付は6割に減り、パインはなくなった。しかし、ミカンと野菜類は少しの面積だが増えている。

畜産は、養鶏が5万6千羽余りで大きな比重を占めるが、養豚も盛んだ。とくに、昭和54~56年度に真喜屋養豚団地(豚舎20棟他)の建設に伴い、飼養頭数は2倍以上の3500頭余となった。

なお、真喜屋小学校が昭和35年のチリ地震津波で破壊された跡地は青少年野外活動センターとなっていたが、同55年4月には農村連動広場として、ナイター設備を持つグランド18,000㎡が整備され、野球などによく利用されている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の真喜屋の御獄として、「由来記」(1713年)に真喜屋之撤(神名ツツロマギヤミヤデラノ御イベ)とマテキヤ嶽(神名モリコガネノ御イベ)が見える。さらに、真喜屋ノロ火神と神アシアゲの二つが記され、そこで行なわれる祭祀は真喜屋ノロが司った。当時の月々の祭祀は一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在の御獄は、集落の後方にあるウイヌウタキ(上之御獄)であるが、稲嶺地内のマディキヤウタキ(真照喜屋御獄)も重要な拝所である。ウイヌウタキの北側にはヌンドゥンチ・神アシャギ・ウッチ火神・チルカミの各拝所と、ヌルガー・ウインカガーという拝井泉がある。また、公民館近くにウペーフとニガミウガンがあり、その北西の集落はずれには、アハチャビと呼ぶ松林に囲まれた丘に拝所がある。

祭祁を司る神役は、旧家であるウペーフ・ナカモー・マビから出る。ヌルは喜納系統、ニガミは松田系統、ウペーフは平良系統から出る(国頭の村落)。

伝統的年中行事には、表に見るように、1月の初御願・真照喜屋御願、3月春分の日に行なわれるマディキヤウガン、旧4月の第2子の日のアブシバレーウガン、5月のウマチ-、6月24日から26日のウプウマチー、8月6日から10日の豊年祭、そして同15日の十五夜御願などがある。豊年祭では、8日に八日御願、10日に十日御願をする。

芸能

真喜屋のアシャギ庭[ミャー]には、村踊りを演じる常設の立派な舞台がある。

旧8月の豊年踊りの正日(8日)には、アハチャビからアシャギまで道ジュネーが行なわれ、綱引きをする。棒が演じられた後、長者の大主をはじめ舞台での踊りが始まる。真喜屋が得意とするのは、蝶千鳥・高平良万才・松竹梅などで、最後には劇も演じられ、再び棒でしめくくる。

祭りは、真喜屋・稲嶺の代表者で組織される真稲神伺会が運営に当たる。

文化遺産

真喜屋には指定を受けた文化財はないが、ウイヌウタキの拝殿近くに推定樹齢150年のリュウキュウハリギリの老樹がある(樹高12m)。

真喜屋は地域史料が豊富なところで、琉球大学の島袋源七文庫に収蔵されている8点の真喜屋関係史料のうち7点は「風水」に関するものである。実地に即した研究はまだなされておらず、今後の楽しみな課題である。また、小川徹氏が確認した「請目帳」や家祭祀をはじめとする民俗史料も重要である(小川徹:近世沖縄の民俗史、羽地落穂集)。

羽地内海の小島ジャルマ島は、真喜屋に属している。この島はもともと墓の島で、イチグシク(池城)墓をはじめ、近世中期以降の墓が岩を掘り込んで造られている。その空き基の一つに納められた石棺には、「中城掟役前ノ大掟ニテ侯・…..」と刻まれる。名護市内では稀にみる石棺である。

ところで、真喜屋大川の上流、真喜屋林道を10kmほど行った所に「瑞豊之泉の碑」が建っている。明治の前半、真喜屋・稲嶺・仲尾次の水田を潤すために、ウイシガー(源河大川の上支流)から真喜屋大川に引水する案があった。その後、戦時中の昭和18年に福川用水工事として計画が具体化し着工したが、昭和20年米軍の攻撃で破壊された。それが完成をみたのは、戦後昭和24年3月になってのことである。碑の裏面に「三区合同」と刻まれるとおり、この覗業は真喜屋・稲嶺・仲尾次三区民の共同事業として成ったのである(名護碑文記)。

真喜屋の小字一覧

アサギ[阿社義/阿社義]

メーター[前田/前田]

ナハダ[仲田/仲田]

アパチャビ[阿波茶部/阿波茶剖

ピャータ[平田/平田]

マビタ[真美田/真美田]

クルサチー[黒崎/黒崎]

オーブロー[奥武原/奥武]

マンガー[満川/満川]

ウガンバラー[拝原/拝原]

マテヤ[真手屋/真手屋]

ウイジャトゥ[上里/上里]

フガマタ[久川又原/久川又]

ウイフガマタ[上久川原/上久川原]

ハミシー[亀石原/唾石原]

ヤナギマター[柳又/柳又]

ウプハー[大川/大川]

キナ(バル)[喜縄/喜縄]

ジャールマー[ジヤルマ島/祭龍真原]

真喜屋は19の小字に区画されている。アサギが集落の中心である。南のウガンバラーには御嶽があり、また村発祥の地とされる。ナハダは、真喜屋のみならず羽地でも一等地であった。マビタは仕明による開拓地で、そのほとんどがマビタ屋の土地であったという。キナバルでは明治以降開墾が進み、14,5年前まで住んでいた。オーブロ(奥武島)は墓の島として知られる。ジャールマーも墓の島で、明治36年には仲尾に属し、祭龍真原と表記された。

真喜屋小年表

1722年 凶作。古我知親雲上が各戸に米を給して救済(球陽)。

1835年 真喜屋・稲嶺両村、おいす川山の作職を願い出る。

1844年 真喜屋村、ひしりへり山の開地作職を願い出る。

1848年 おたんにや山杉敷が御禁止敷となり材木の伐採禁じられる。

1873年 柚山境界をめぐり仲尾次と争う。

1917年 真喜屋地区耕地整理計画。

1933年 部落の産業組合設立。

1934年 更生部落の指定を受ける。

1937年4月 県部落更生共進会に入賞、模範部落の折紙が付けられる。

1941年 産業組合解散。

1945年 米軍、真喜屋に海軍病院を設置。

1946年4月 黒崎原の米軍病院天幕舎を譲り受け校舎とし、真喜屋初等学校と称す。

海軍病院を名護幸地病院跡に移す。

1954年 真喜屋農業協同組合設立。

真喜屋タープックヮ耕地整理。

1960年5月 チリ地震津波により校舎半壊。

この頃、キビ畑に転換進む。

1961年6月 かざな森に新校舎建築落成。

1963年10月 羽地青少年野外活動センター設置。

1970年 この頃、水田消える。

1982年3月 上久川原に養豚団地完成。

真喜屋の行事・活動一覧

1.1 安全祈願祭、パチウグヮン

1.28 真照喜屋田御願

2.4 農業委員会

2.20 旧正月

3.21 マデイキヤウガン(真照喜屋折目)

3.21 婦人会当役会

3.29 評議員会

▲ハンカ(旧3.3)

▲三月四度御物参(由来記)

4.4 婦人総会

4.14 清明祭

4.19 代議員会*本年はあと4回開催(5、7、8月2回)

4.29 婦人総会

5.9 戸主会*本年はあと3回開催(5、7、8月)

5.12 婦人会視察

5.15 交通安全友の会総会

5.24 老人会総会

5.28 老人クラブ視察

5.28 向上会総会

▲風の御願(旧5月)

▲山留

6.2 向上会アハチャビ作業

6.6 アブシバレーウガン( 旧4月第2の子の日)

6.8 アブシバレー行事

6.15 向上会視察

6.21 交通安全友の会総会

6.27 レク代表会

6.27 平和祈願祭

▲神ゆれ-(旧6.4)2力字

▲ 束取り折目

▲年浴

7.2 ウマチー、稲穂祭御願(旧5.15)

7.7 区民大運動会

7.15 教育懇談会

7.19 グループ長会

▲海神祭(由来記)

8.4 真喜屋・稲領代議員会

8.10~12 ウプウマチー(大ます折目、旧6.24~26)

8.22 旧七夕

8.22 2ヵ字運営委員会

8.31 エイサーお願

▲八月四度御物参(由来記)

9.2 評議員会

9.5 2ヵ字運営委員会

9.20~23 豊年祭(旧8.6~10)

9.22 八月八日お願(旧8.8)

9.24 八月十日お願(旧8.10)

9.29 十五夜お願(旧8.15)

▲ミャーダニ(旧9月)

10.20 カジマヤー

▲タンティー(旧10月)

11.10 交通安全友の会作業

11.11 老人会作業

11.17 部落敬老会

11.27 メークミ殿内懇談会

▲竃廻御願

▲ウンネー祭

▲ヤーサグイ

12.2 北部製糖安全祈願祭

12.3 向上会当役会

12.9 風紀懇談会

12.19 向上会総会