瀬嵩 山と開墾地

瀬嵩「山と開墾地」

久志村では、ムラの範囲の村有林を毎年二十分の一ずつムラに払い下げ、その区域の立ち木を切ることができたという。こうした炭や薪木、竹ガヤなどを山から出して山原船に売った。薪採りは男の仕事、竹ガヤは女の仕事だった。炭焼きのときは山の木を皆伐し、藍は谷間で栽培した。藍づくりはもっぱら屋取の人たちの仕事だった。このために、山中では馬道や徒歩道、屋敷を結ぶ道などを上り下りした。フダキとヤックヮのあいだにクスヌキシキ(楠敷)があったが、そのなかをエーカラスに下りる道が通っている。くだる道は石の坂で、イシビラとよばれた。楠は伐採を禁じられたため見事な大木に育ったが、戦後の復興時に乱伐された。今でもその一部が残っている。

山には瀬嵩以外から多くの人たちが入り、戦前まで藍づくりや炭焼きで暮らしていた。そうした開墾入植地には以下のものがあった。

エーカラス

大浦川上流域のフダキとヤックヮの頂きにはさまれた谷間に、藍を栽培した段畑、屋敷跡、藍壺、炭焼き窯が今も残っている。藍壺は直径三メートル、深さ一メートルの半球状と小さな四角いもの(玉壺)の二種が確認される。炭焼き窯は確認されただけで十二もあった。屋敷跡の確認では三~十軒が住んでいたようで、本部半島から入植したI家はここで生活し、大正から昭和にかけて瀬嵩ムラに下りた。小学校へは薪を担いで通ったという。

ヤックヮエーチブ

ヤックヮの北西の谷で、ここも大浦川上流域である。藍づくりをしていたと思われるが、藍壺、屋敷跡は未確認。炭焼き窯が確認された。

イシブトゥカー

ヤックヮエーチブの北にある広い谷にも屋取の集落があった。詳しくは、汀間の山の暮らし の項参照。

ウフキシンチャ

ヤックヮの南の谷にあり、汀間へ流れる川の源流から汀間との境界までを含む。驚くほどの急斜面に段畑、屋敷跡がある。近くに屋号運天小の名がついた山がある。ウフキシンチャの谷の隣にある谷をキシンチャグヮーといい、それが接するあたりに糸芭蕉(ウー)が植えられていた。人がいなくなったあとも、ここからウーをムラに運んだという。

ニシミチ開墾

ヤックヮから羽地の多野岳に通じるシジ道付近をニシミチ(北道)というが、そのあたりに五、六軒の屋取集落があったと聞く。場所は未確認。瀬嵩の集落から通って、炭焼きをした人もあった。