安部のエイサー

安部のエイサー

安部ではエイサーと呼び、1955年(昭和30)頃まで旧盆に行われていた。1970年代に1年だけ復活したが続かず、1980年(昭和55)頃に再び復活し、名護市青年エイサーまつりにも出場したが、その後また途絶えている。

終戦直後のエイサーは女性だけのエイサーであった。当時は沖縄戦の影響で男性の数が少なく、戦争未亡人も多かったことによるという。夫を戦争で失い、自暴自棄に陥っている女性らがおり、その気持ちをエイサーに向けさせ、気をまざらわせるためにエイサーを復活させたともいわれる。戦前のエイサーは戦時下で途絶えていたが、南洋か ら引き揚げてきた金城キキンと上江洲(宮城)五郎が覚えていた。安部の女性らのエイサーは評判がよく、1952、3年(昭和37、8)頃には3度、県大会にも参加するなど活躍し、それが自信につながったという。1950年頃の会長を許田美津や宮城百合が務めていた。

練習は浜辺やムラヤーの広場で、盆の二十日ほど前から毎晩行われた。本番は旧暦7月13日と同15日~17日で、その間は村踊りの期間(16日まで)にもあたり、最後に村踊り舞台でエイサーを踊った。隣区の三原の家々を巡るのは、たいてい7月17日であった。

エイサーの活動資金は、すべて自分らで調達し、区からの援助はなかった。隣区の三原まで遠征し資金稼ぎをしたが、夕方安部を出て、戻ってくるのは夜明けであった。その他、薪の販売も行い、婦人会活動の資金とした。会計報告もなされた。

1970年代に一度復活した時には青年会が中心となったが、経験者の女性たちが指導している。練習場所は公民館であった。その時の青年会長は宮城勇吉で、安部の離れにあるカヌシチャの小集落まで安部全世帯をエイサーで巡り、13万円の寄付を得た。カヌシチャは漁師ムラで、ウミンチュたちは気前が良く、寄付金の額も大きかった。その資金で野球のユニフォームを購入したこともある。しかし、青年会によるエイサーは、女子青年が出稼ぎに出たため、男性だけではできないとのことになり、1年で中止したという。

エイサーの由来については不明だが、戦前から戦後まで小太鼓一人、他は手踊りの輪踊りエイサーであった。1970年(昭和45) 頃に大太鼓が一人加わった。「仲順流れ」ほかの演目があり、四つ竹とゼイ(座)を使った。ゼイは赤い三角布を棒につけたはたき状で、三本持った。

1980年(昭和55)頃に再復活した時の演目は、「チュンジュンナガリ」「テンヨーテンヨー」「スーリアガリ」「うるくとみぐすく(小禄・豊見城)」「ティーマートゥ」「 ダンク節」「唐船どぅい」である(「名護市青年エイサーまつり第10回記念 名護市のエイサー」)。その時使用した比嘉由仁による歌三線の録音テープが区事務所に保管されている。

出典:「芸能