喜瀬

喜瀬区の現況

世帯171 人口358 面積5.39k㎡(2017年現在)

喜瀬は、方言でキシと呼ばれ、古くは「おもろさうし」で、「きせのうら」(喜瀬の浦)や「きせのし」(喜瀬の子)と謡われる。

名護市の南西に位置し、恩納村の名嘉真と接する。北は名護湾に面する。南には山地が連なり、宜野座村と接する。連山に源を発する真謝福地川と真謝川が途中で合流し、喜瀬川となり名護湾に注いでいる。集落内を国道58号線が通り、西海岸の主要道路となっている。

集落は沖積地に発達し、喜瀬川を境にして大きく二分される。公民館付近は、セミヤ(瀬宮)と呼ばれ、神アサギやヌルドゥンチなどがあり古い集落である。瀬宮は、シガマムイの山麓付近から移動してきたという。

国道58号線沿いの集落は、大正から昭和にかけて、碁盤目状の集落を形成し、イーマー(上間)と呼ばれる。さらに、国道から北側の海岸寄りの集落をハマバタと呼んでいる。

集落の南側に、区画整理された水田が広がり、収穫期になると小型の稲刈機で稲を刈る風景がみられた。水田は、山手よりに僅かに残すのみとなった。

主な施設に、沖縄海中公園・国民宿舎名護浦荘・名護市民海水浴場・ドライブイン喜瀬・民宿喜瀬・民宿前ノ浜などがある。

喜瀬区公民館

喜瀬交流プラザ 喜瀬102-3

喜瀬の小字一覧

セミヤ[瀬宮原/瀬宮]

イーマー[上間原/上間]

アキチ(バル)[明地原/明地]

プクジー[福地原/福地]

ウプナースー[大前代原/大苗代]

マジャー(バル)[真謝原/真謝]

ウッカー/ウプカー[大川原/大川]

アガリウィー[東上原/東上]

ホーチ(バル)[幸地原/幸地]

ヤマーダ[山田原/山田]

メーナースー[前苗代原/前苗代]

アハミチー(ピラマーチー)[赤道原/赤道]

ブシナ[部瀬名原/部瀬名]

インブ[伊武部原/伊部]

喜瀬は14小字からなる。セミヤはムラウチとも称され、集落の中心地である。国道沿いのイーマーには大正期以後屋敷が広がる。

喜瀬は昔から米どころと言われるだけに、プクジー・ウプナースー・ホーチ・メーナースーなど水田に因む小字名が多い。南に広がるマジャーは肥沃な水田であった。ウプナースーは1町歩(3,000坪)程の広さだが、村中の苗代田がそれぞれ20~30坪単位でここに設けられていた。

喜瀬区のあゆみ

先史~古琉球の喜瀬

喜瀬には、イシグムイ遺物散布地(仮称)と喜瀬山田原遺物散布地(仮称)・部瀬名[ぶしな](喜瀬)貝塚がある。イシグムイ遺物散布地は、後ヌ御獄の南側の畑地内で、土器片が数個確認されているが時代は不明。喜瀬山田原遺物散布地は、集落の南側の水田地帯の西側に位置する。丘陵部分に入り込んだ小さな谷間の畑地内から土器片が採集されているが時代は不明。部瀬名(喜瀬)貝塚は、海中公園入口付近にある。沖縄貝塚時代後期の土器片が採集される(名護市の遺跡2)。

近世の喜瀬

近世の喜瀬は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」で「きせ村」、「高究帳」では「喜瀬村」と今の漢字が充てられる。「高究帳」による喜瀬村の石高は142石余り(田127石余、うち永代荒地38石余を含む、畠14石余)である。

1715年(康煕54)房弘徳(比嘉筑登之親雲上乗昌)は、自ら工夫を凝らして独特の漆法で器物を飾り、これを堆錦塗[ついきんぬり]と名付けた。

王府に提供して褒賞を戴き、太平(宮古)布と米一石を賜った。後に、名謹間切喜瀬村の地頭職を賜った(球陽)。

蔡温の元文検地[げんぶんけんち](1737~50年)のとき、図根点に使われた「つ・せみや原| と「あけち原」と記されたハル石二基が発見されている。「せみや原」は今の瀬宮原、「あけち原」は明地原に相当する原名[はるなー]である。

1805年(嘉慶10)喜瀬川に、検者や名護間切の地頭代・夫地頭などが橋を架け褒賞された。喜瀬の河口付近は、地元の人々ばかりでなく、多くの人たちが往来に利用するスクミチ(宿道)であった。もともと木僑が架設されていたが流され、潮が満つと深さが四尺余りになり人馬の往来ができなかった。急ぎの公用のときなど甚だ不便であった。それで田地奉行に橋を架けるようお願いしたが、多くの力役を必要とするので、百姓の暇を窺っているうちに延びてしまった。幸い毛氏兼浜里之子親雲上盛林を検者に任命した時、地頭代東江親雲上・前の夫地頭山入端親雲上・大兼久親雲上等と相談して、石で橋下駄を築き橋を架設して長く保った。名護間切ばかりでなく、諸間切も利益をもたらしたので兼浜に上布二疋を賞し、東江・山入端・大兼久の三人にも爵位を賜った(球陽)。

近現代の喜瀬

近代の喜瀬の人口を見ると、まず明治13年には戸数62、人口340人(内男182)を数えた。同36年には495人(内男243)で、この間に人口は1.5倍に増えている。また、同年の平民人口431人に対して士族人口は68人(13.6%)で、名護間切では士族の少ない方に属した。

明治16年の調査によると、喜瀬村の地割は人頭割でなく、年齢によって配当地の割合を決めている。喜瀬村の一地(地分けの単位)は、田が70坪、畑が99坪であった。(南島探験)。近隣の幸喜村や許田村よりも少ない。

大正5年に耕地整理組合ができ、事業が実施された。喜瀬の事業面積は17町歩余りであった。この事業は、明治42年に砂糖消費税が減免されたことをきっかけに、農家の砂糖増産の機運を促した。水田はキビ作へ切り替えられ、水捌けの悪い湿地帯にも排水施設を施して畑にした。大正期に於ける耕地整理事業の背景には、砂糖消費税をはじめ、朝武士[あさぶし]郡長の砂糖増産5カ年計画や大味知事による産業10年計画などがあった(戦前新聞集成2)。

昭和4年に喜瀬の部瀬名岬に癩患者収容所を設価する計画がもちあがった。喜瀬・幸喜・許田の三カ村では税金不納、土地不売同盟を組織して反対連動を繰り広げた。その結果、計画は嵐山へ移されたが、同6年そこでも猛烈な反対運動が起こった(嵐山事件)。様々な抵抗を経て、同12年に屋我地島に建設された。

戦時体制下の喜瀬でもいろいろな出来事があった。例えば、昭和17年には田植えの共同作業を計画して、共同託児・共同炊事を行ない、婦人の潜在労力を生産に向けた。労力の5割節減ができたのは、共同田植えだけでは駄目で共同託児と共同炊事が並行して効果があったという。また、昭和18年に各戸から用材を持ち寄り、工費一千余円を拠出し部落民の奉仕で、字事務所が完成した(前掲書2)。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年には118世帯・643人であった。人口は、その後同47年頃に少し減り始め、同53年頃から僅かながら減少傾向が続き、昭和60年現在488人を数える。25年前の4分の3に減ったことになる。世帯数は平衡状態が続いたが、昭和48年頃からやや増えてきて、同60年には131世帯を数える。25年前に比べて1割程増えている。

喜瀬の産業の現状を産業別就業者の構成で見てみると(同表参照)、就業者219名の内、第1次産業45%、第2次産業12%、第3次産業43%という構成で、第1次産業と第3次産

業がほぼ同じ比重をもっている。ここ15年、第2次産業に変化はなく、第1次産業が減った分、第3次産業が伸びている。

農業について見ると(農業基本統計表参照)、ここ15年の間に、農家数は第2種兼業農家を中心に3割程減った。喜瀬全体としての経営・耕地面積は約33haであるが、これは15年前の6割に当たる。現在の基幹作物はキビであるが、5年前まで収護面積では水稲(二期作)の方が多かった。その水稲も、現在進められている土地改良総合整備事業(23.8ha)のため休止中である。パインはここ15年で半分に減っている。その中で伸びてきたのは花き類である。なお、集落南側の低地農地で実施された土地改良事業(昭和55~62年度。区画23.8ha、潅慨16.0ha)によって、農業振興の基盤が整備されるので、今後の展開が期待される。畜産は、200頭規模で養豚が行なわれている。

喜瀬の海岸は白砂が長く連なり美しい。ここを含む西海岸一帯は、復帰時に沖縄海岸国定公園に指定されたが、とくに部瀬名岬とその沿岸海域は海中公園区域になっている。昭和45年に、ここに沖縄海中公園ができ、また同50年には隣接して国民宿舎名護浦荘が開設された。夏場を中心に、県内外から多くの観光客が訪れる。また、喜瀬から幸喜にかけての浜は市民海水浴場としてよく利用され、周辺には民宿やドライブイン・商店の立地があいついだ。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の喜瀬村の御獄として、「由来記」(1713年)にセカマ森(神名イベヅカサ)とミヤトヤノ獄(神名イベヅカサ)が記される。さらに喜瀬巫[のろ]火神と神アシアゲがあり、そのうちミヤトヤノ獄以外は、喜瀬ノロが祭祀を司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在の御獄として、集落の東にイシグムイ(後ヌ御獄)、集落の後方の林の中にミヤトヤ(ナカーヌ御獄)、さらに後方にシガマムイがある。公民館の近くに神アサギとヌルドゥンチがあり、その周辺に3つの小さな拝所がある。拝井泉として、集落の西の山裾にメーカガー、シガマムイの裾にウッカーがある。

戦前は、男性を含む10数名の神役がいたが、現在は女性のみ5人となった。いずれも比嘉系統から出る。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧3月3日の浜下り、4月のアブシバレー、5月15日のウマーチ、6月15日の神ウガミ、10月のハンクヮ行事などがある。

芸能

豊年踊りは、毎年旧8月に3日間行なわれる。11日の正日には、ミヤトヤノ獄でかぎやで風・はんたま・上り口説を舞い、それから道ジュネーで公民館広場に戻る。舞台は広場の奥に神アサギに向けて設けられ、最初に長者の大主を演じる。かせかけは、得意とする踊りで独特の手を持つ。般後には商平良万才が出る。戦後すぐまでは組踊もあったが、今はない。「糸納の按司」「本部大主」などを得意としていた。

その他、狂言も盛んだったが、これも今はない。棒も演じられていたが、いまでは旗頭のまわりに棒を立てるだけとなっている。

文化遺産

喜瀬には指定文化財はないが、シガマムイをはじめとする各拝所は文化財的な価値が高い。田袋の最奥の斜面にあるハル石(つ・せみや原)は、ほぼ原状を保っており貴重である。ハル石は別に「あけち原」が確認されている。

クシヌ御獄のガジマル(推定70年)は、洞に着いた芽から生長し、現在すっかり洞を包み込んでいる珍しい樹木である。

喜瀬の地域史料は今後の調査を待つが、「南島ヤップ島土地売買関係資料」(比嘉文章蔵、昭和17・18年)は、南洋移民史料として貴重である。

喜瀬に伝わる伝説

花当幸地里之子

シガマ森のお粥戦争

喜瀬小年表

1715年 首里の房弘徳、堆錦塗りの漆器製造をはじめ、褒賞される。のちに喜瀬地頭職となる。

1805年 兼浜里之子親雲上盛林名護間切検者の時、石造の橋基を喜瀬川に築き、橋3座を設けて往来の便を図り褒賞される。

1910年頃 この頃から真謝川下流右岸にイーマ集落を形成。

1916年8月 喜瀬耕地整理組合設立認可。

1920年頃 水稲台中65号種普及。

1920年 ハンセン病保養院建設の候補地となる。三共同盟を結成し反対運動を展開。

1940年11月 喜瀬農事改良組合、米穀増産部落として農林省へ推薦報告される。

1942年4月 共同託児・共同炊事・共同田植を実施、従来の労力5割節減。

1943年3月 字事務所隣保館を新築。

1945年 徴用で喜瀬の浜で働いているとき、米軍機B-24の機銃掃射を浴び10数名の死者を出す。

1953年11月 1号線喜瀬僑竣工。

1957年9月 大暴風雨のため喜瀬・数久田で家屋80戸倒壊。

1959年2月 喜瀬・幸喜町有林軍接収承諾署名。

1960年頃 キビ・パインへと農業の比重移る。

1970年8月 沖縄海中公園開園。

1972年 海岸一帯、沖縄海岸国定公園海中公園地区に指定。

1973年7月 市民海水浴場オープン。

1975年3月 国民宿舎「名護浦荘」落成。

1981年10月 第8回ウインドサーフィン世界選手権大会、沖縄海中公園で開く。

1985年 河川改修・土地改良事業着手。

喜瀬の行事・活動一覧

昭和61年1~12月

1・1 初川御願・初うくし

1・2 新春マラソン・ゲートボール大会

▲旧3月四度御物参(由来記)

4・11 浜下り(サングヮチサンニチ)

4・13 清明祭

4・ 区民総会

5・18 喜瀬区育英会35周年記念式典・学事奨励会

5・23 アブシバレー

▲稲穂祭三日崇(由来記)

▲山留(由来記)

6・21 ウマチー(旧5・15)

▲年浴(由来記)

7・21 神ウガミ(旧6.15)

7・27 区民運動会

▲海神祭(由来記)

▲旧8月四度御物参(由来記)

▲柴指(由来記)

9・14 敬老会(旧8.11)

9・16 豊年踊り(旧8.13)

9・23 彼岸まつり(フーキ御願)

▲ミヤタネ(由来記)

11・19 ハンクヮ行事

▲芋ナイ折目(由来記)

12・7 産業共進会

12・8 鬼餅