汀間のあゆみ・小年表

汀間小年表

1897年(明治30) 「沖縄県間切島吏員規程」施行。久志間切では、最後の地頭代松永久米吉(汀間)が最初の間切長になる。

1900年(明治33) 久志間切で初めて汀間に開業医。(大島出身の福原忠治).

1917年(大正6) 久志村春季原山勝負を嘉陽小学校で開く。原は瀬嵩、山は汀間が優勝。

1920年(大正9) 玉城定善、久志村長に就任

1921年(大正10) 久志村役場が汀間区事務所に移転。

1925年(大正14) 瀬嵩との間の難所汀間スガイ道に車道(村道)開通。志板垣・道垣・慶屋を分け行政区三原を創設。

1926年(昭和元) 久志村役場再び瀬嵩に移転。汀間から交通の便利と機関が集まる瀬嵩の前徳村の民家を借りる。

1936年(昭和11) 玉城定喜、久志村長に就任する。

1937年(昭和12) 7月 簡易水道設置。

1939年(昭和14) 汀間まで郡道延長。

6月 農家32名で有畜農業経営組合を設立。

1945年(昭和20) 中南部からの疎開者・避難民で人口急膨張。

1947年(昭和22) 4月 久志実業高等学校が汀間に設立認可。

1948年(昭和23) 久志村で村産業共進会開催.原は汀間、山は久志が優勝.

1949年(昭和24) 9月 対岸の嘉手苅まで木橋が架けられる。1952年6月の大水で流失。

1955年(昭和30) 7月 汀間橋、コンクリートの開閉式橋に架けかえる。

1957年(昭和32) 久志中学校、瀬嵩の久志小学校に併置される。

11月 社殿・神アサギ等を建立。

1958年(昭和33) 3月 思計林道竣工。

第1期林道工事竣工.

1959年(昭和34) 3月 汀間田川を水源とする村後の用水路完成。

4月 第2期汀間林道工事竣工。

1960年(昭和35) 5月 チリ地震津波で橋破壊される。

1962年(昭和37) 松永保市、久志村長に当選.

4月 総鉄筋コンクリートの新しい橋が架けられる。

9月 売店を改築。

1972年(昭和47) 3月 天仁屋・三原・久志の各小学校に併置されていた中学校を新築の久志中学校に統合する。

1973年(昭和48) 3月 汀間漁港竣工。

汀間のあゆみ

先史~古琉球の汀間

汀間川の河口付近に嘉手苅村跡遺跡があり、古琉球から近世にかけての遺跡である。中国製の青磁や近世初期の染付、それに沖縄製の陶器(喜名焼・壷屋焼など)が採集される(名護市の遺跡2)。近世期まで「かてかる村」があった場所である。

近世の汀間

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に名護間切「てま村」とみえる。「由来記」(1713年)から「汀間村」と記される。「絵図郷村帳」にみえる「かてかる村」は、汀間村の一部となったと考えられる。

「高究帳」による石高は、150石(田138石余、うち永代荒地68石余を含む、畠11石余)である。久志では、「おほら」と「せたけ」を合わせた石高168石余を除くと、最大規模の村であった。また、永代荒地もー番多い。

乾隆13年(1748)御法度の諸木を盗んだり、密々に商売したりする者がおり、津口勤番を立てて船の出入りを改めさせてきたが、同16年(1751)に山奉行筆者を増やして、津口勤番も兼務させた。汀間は、安部詰筆者の所管であった(地方経済史料)。

近現代の汀間

近代の汀間の人口を見ると、まず明治13年には戸数92、人口410人(内男210)である。久志間切では、戸数・人口とも最大の規模であった。明治36年には531人(内男279)で、この間に人口は1.3倍に増えている。この時点でも汀間は最も人口が多かった。また、同年の平民人口319人に対して士族人口は157人(33%)で、士族人口の多い村であった。士族の居住の多い区域を中心に、後年三原が成立する。

明治26年国頭地方を巡回した笹森儀助は、汀間を訪れ金丸(尚円)にまつわる古井(カニマンガー)まで足を運んでいる(南島探験)。

汀間川の河口は、汀間港とも呼ばれ与那原を往来する山原船の碇泊地で、山原から薪や材木を、与那原などからは日用雑貨などの積み下ろしで賑わったという。

大正10年に久志村役場が汀間に移転したが、昭和元年に再び瀬嵩に移された。同14年汀間の一部であった志根垣・道垣・慶屋を割いて行政区三原が成立した。昭和26年には、嘉陽の福地原が三原に組み入れられ、また地籍字として分離した。同年汀間と瀬嵩間に車の通るスガイ道が完成した。

汀間の戦後の人口の動きを見ると、収容所時期、中南部などからの疎開・避難民を含め、人口はあふれるほどであったという。その時

期も終り、戦後の再出発をした昭和21年1月でも、汀間の人口は1,493人を数えた。そして、中南部の人々がそれぞれの故郷に帰村して、地元も落ち着きを取り戻した翌22年10月には、戸数107・人口422人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口は推移グラフに見るように、同年68世帯・人口324人である。汀間の人口は、わずかの変動はあるが、現在まで300人前後で推移してきて、昭和60年には293人を数える。25年前に比べて、1割ほど減っている。世帯数は、昭和44年にかけて10世帯程減少したが、その後は徐々に増えて、現在90世帯である。25年前に比べると1.3倍に増えている。

なお、昭和47年に、久志・三原・嘉陽・天仁屋の中学校(併置)を統合して、汀間に久志中学校が設立された。