為又

為又区[びいまた・く]

為又区の現況

世帯数:245世帯 人口:959人 面積3.14k㎡

為又は、方言でビーマタと呼ばれ、低湿地に自生するビー(イグサ)に由来すると言われる。蔡温が実施した元文検地(1737~50年)の竿入(測量)に使われた図根点(ハル石)があり、それに「エ・ゐまた原」と記される。

名護から為又を通り三土堤[みつどて]を経て伊豆味・渡久地へ、または今帰仁村へ行く県道116号線が通る。集落の西側を通っていた道路は、海洋博覧会会場へ向けて新しく道路整備がなされたため、白銀橋からカノレチャーハイツの南を通る道が主要道路となった。集落を東屋部川の支流である為又川が流れる。

集落は、丘陵地の麓の旧道に沿って散在するヤードゥイ(屋取)集落を形成していた。近年名護市街地の拡大により、為又にもグリーンハイツなどの団地や個人住宅の建設が急速に進んでいる。

主な施設に名護農協パイン選果場・為又野菜集出荷場・為又集落センター・名護グリーンハイツ・平安山病院・沖縄スイミングスクール名護校・名護パイン園などがある。

為又のあゆみ

近現代の為又

為又は、戦前は宮里に属した。明治の初期に那覇から移住してきた人々が屋取集落を形成した。生活習慣の違いもあり、宮里の本部落との関わりが少なく、近辺の勝山や旭川などの屋取地域との交流の方が緊密であった。

昭和22年に宮里の4小字(為又原・福地原・大又原・湯比井原)を割いて行政区為又が成立し、同26年には地籍字として独立した。

農村地域である為又に新しく住宅等が建ち始め、人口が急速に増加するのは、昭和50年代からである。戦後の人口の動向を見ると、昭和35年には62世帯・326人であった。その後、人口は昭和42年までほぼ同じである。同43~44年に増加するが、48年にかけて減少した。そして同49年、特に52年以降急速に増加し、昭和60年現在959人を数える。25年前に比べて2.9倍に増えたことになる。世帯数は、昭和48年まで60世帯台で目立つ変化はなかったが、同49年以降急増して、現在245世帯を数える。この25年間に4.0倍になった。

為又区の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると、就業者417名の内、第1次産業18%、第2次産業22%、第3次産業59%という構成で、現在第3次産業に従事する人が多くなっている。ここ15年の間に第1次産業(農業)の比重が大きく減る一方、第3次産業が増えている。ただ、第1次産業の就業者数はほとんど変化しておらず、急増した就業者の大部分が第3次産業に従事したと理解される。

その第3次産業では、サービス業が多く(46%)、卸小売業(35%)がそれに次ぐ。農業について見ると、現在農家は48戸で、全体として51haの経営耕地面積を有している。15年前に比べると、経営耕地面積は4分の3に減り、作物の収種・栽培面積も8割になった。為又の農業はキビ・パインを基幹としてきたが、近年野菜類や花き類・施設園芸も伸びてきている。それは、昭和59年度に為又花き団地(ピニールハウス約1ha)および同60年度に為又野菜団地(ビニールハウス約2ha)が整備されたことによる。なお、昭和56年度には名護農協集出荷場が地内に設けられた。畜産はあまり盛んでなく、養豚が200頭規模で行なわれている。

伝統文化

拝所と祭祀

明治以降、那覇などから移住した人たちが集落を形成し、戦後区として成立した部落であるため、拝所は少ない。

公民館の北側の小高い森にあるウガンジュあるいはお宮と呼ばれる拝所は、区成立後に造ったものである。公民館の横には、ウカマという拝所もある(国頭の村落)。

伝統的な年中行事は、旧1月4日の山御願、5月15日のウマチー、9月29日の氏神祭などがある。

芸能

分区前は、この地域に住んでいた人たちは、宮里の村踊りに参加していた。分区後、数年間は宮里の古いバンク(仮舞台)を譲り受け、独自で踊りをやっていたが、やがて、5年マールになり、今はやらなくなった。衣裳などは今でも公民館に保管されているので、区民は復活することを期待している。

エイサーも5、6年前までは、やぐらを組みその周りでやっていたが、今はやらない。戦前は、各戸を回るほど盛んで、その歴史は古いと言われる。現在、中部で盛んな太鼓を持つエイサーとは違い、ティーモーイ(手舞い)を中心とする。

文化遺産

ウニンドーの小さな丘の上に、オガタマノキが一本生育する。推定樹齢40年のまだ若い木であるが、地域では大切な木の一つである(名護市の名木)。

公民館の前の丘に建つ「為又の慰霊塔」(1957年建立)は、南洋での戦死者を含め、出身者22名の霊を祀る(名護碑文記)。

為又の小字一覧

ユヒバル[湯比井原/湯比井原]

フクジバル[福地原/福地原]

ウフマタバル[大又原/大又原]

ビーマタバル[為又原/為又原]

為又は4小字からなる。ユヒバル(別名ユッピー)は大正年間に耕地整理が実施されたが、ここの水田は主に字茂佐・屋部・宮里の人の所有であった。ビーマタバルは、チナーダとも呼ぶ。

為又小年表

1880年頃 那覇方面からの移住者が屋取を形成。

1947年 1月行政区為又成立。

拝所を公民館北側に新設。

1961年 11月為又簡易水道落成。

1965年 10月為又農道竣工。

1981年 6月為又農村集落センター完成。

為又の行事・活動一覧 昭和61年1~12月

1. 新年宴会

山御願(旧1.4)

4. 産業視察

6.4 区民総会

ウマチー(旧5.15)

産業共進会(旧5.16)

6. 美化清掃

7.14 区民運動会

8. 盆踊り(旧7.13、15)

9. 美化清掃

氏神祭及び敬老会(旧9.29)

11. 行政懇談会

12. 美化清掃

産業視察

*役員会は年8~9回開催

*婦人会は毎月定例会を持つ