名護地区

名護地区のあゆみ

名護湾岸地域にいつ頃から人が住み着いたのかは、よく分かっていない。遺跡を手掛かりに考えてみると、沖縄貝塚時代後期(今から2,000~800年前頃)の遺跡は、喜瀬・許田・名護(名護貝塚・アパヌク貝塚・溝原貝塚)などで発見されており、いずれも名護湾に面する浜堤(ひんてい:砂丘)や砂地に立地している。それ以前の時代の遺跡は、これまでのところ確認されていない。その後、グスク時代から近世にかけての遺跡は、丘陵に立地する名護城(ナングシク)遺跡群。大堂原西遺跡・宮里古島遺跡などがある。

中でも、近世以前の時代(古琉球)においては、名護城を拠点に、現在の名誕・屋部・久志地区と東村を,管轄する名護按司(あじ)がいた。

近世初期の名護間切は、上の地域の27ヵ村からなっていたが、康煕(こうき)12年(1673)に久志間切が分離・創設されたため、以降近世末まで11ヵ村で構成される。

名護間切の按司地頭は、康煕6年(1666)尚質王第三子の向朝元が任じられ、その後9世の朝忠まで世襲された。総地頭には、尚寧王時期(1589~1620)に馬姓2世の世栄が任じられ、以降康照45年の7世如飛まで続いた。雍正(ようせい)6年(1728)には、文人・学者としても有名な程順則が総地頭になった。

近世、名護間切には名護・喜瀬・屋部の3名のノロがおり、それぞれの管轄区域の祭祀を司った。

明治12年の廃藩置県に伴い、羽地の親川番所に国頭地方役所が設置されたが、同15年には大兼久に移された。また同年、東江には名護小学校が創設された。明治35年には、現在の北部会館の敷地に国頭郡組合立農学校(国頭農学校)が創設された。この間、名護は大兼久馬場(現在の大通り)を中心に商店の立地が相次ぎ、一方名護港は人と物資の交流の窓口として賑ってきた。陸の道路が整備されるのは、明治後半から大正時代にかけてであるが、すでに明治中頃には、上に見たような中で、名謹は、それまでの普通の農村とは違う町として、山原の行政・商業・交通・教育の中心地としてその地位を確立し、以後その方向で発展を続け、今日に至っている。

明治41年、「沖縄県島嶼町村制」の施行に伴い、名護間切は名護村に改称される。さらに、大正13年には町制がしかれ、名護町となる。

大正5年、山原の逸材を輩出してきた国頭農学校は、嘉手納に移転され、灯が消えたように寂しくなったと、当時の関係者は述べている。中等教育機関が名護からなくなるのは、町の賑いをなくするとともに、この名護・山原地域を担うべき人材の育成にとって大きな障害と判断されたのである。中等教育機関設立の運動は、まもなく大正9年に国頭郡各村組合立実科高等女学校(後の第三高等女学校)の設立や、昭和3年の第三中等学校の設立に実を結んでいった。

大正4年には、那覇~名護間の県道が全線開通し、同6年には名護と本部・今帰仁を結ぶ郡道も開通し、いよいよ陸上交通の時代へと入っていった。この年、山入端隣次郎らによって沖縄自動車会社が設立され、T型フォードの乗合い自動車が那覇~名護間を走り始めた。それまで徒歩で2日間かかった那覇への旅が、一挙に3時間に短縮されたのである。まさに新しい時代の幕開けであった。

昭和の初期は、第一次世界大戦後の景気後退の余波を受け、名護も大恐慌(ソテツ地獄)の厳しい経済・生活状況におかれた。青年たちは都市や県外に流出し、農業も低迷を余儀なくされた。山原が、大正期の経済水準を回復するのは、ようやく昭和11年頃であった。

戦時体制下、昭和19年には市街地の大兼久が、大中・大東・大西・大南・大北の5区に分割された。沖縄戦では、名護は住民も町も大きな被害をこうむった。昭和20年3月23日の大空襲で、市街地は大きな被害を受け、同25日には町政機能が停止し、住民は山に避難した。4月6日には、米軍が名護に進攻し、8日には名護~羽地間を遮断した。6月下旬には、山に避難していた住民は、羽地の田井等・伊差川、久志の瀬嵩・久志や宜野座の収容所に移された。

廃嘘と化した名護市街地の復興は、早く昭和21年から都市計画区画整理事業が着手された。当時は制度的保証のない大事業であったが、この事業によって現在の名護の市街地の骨格が形づくられたのである。規格住宅の建築をはじめ、数年の内に名護市街地は復興された。

一方、同年には西方の7区(屋部地区)が屋部村として分村した。また、同22年には、城区から港区が分離・新設され、同じく宮里区から為又区が分かれた。戦前の大兼久の分区をあわせ、名護町は15の行政区で構成されるようになった。

昭和45年、それまで10年来の懸案であった町村合併問題が解決され、旧名護町・屋部村、羽地村・屋我地村・久志村の5町村が合併して、8月1日新しく名護市が誕生した。

出典:「わがまちわがむら

>名護地区小年表

名護市地域史料目録:名護地区