古我知焼窯跡

古我知焼窯跡

種別:史跡

指定年月日:昭和47年5月12日/県指定

所在地:古我知499ホカ

古我知焼窯跡は、旧羽地村の古我知部落奥又原に立地する古窯です。窯跡は、標高20~30mの丘陵の袋状になった傾斜地を利用して作られていたということから登窯であったと思われます。現在、窯跡は地中に埋もれて窯の規模や基数については不明のままです。

古我知窯の開窯についてはいくつかの説があり、有力な仮説として、平田典通(1641年首里生まれ)によって開窯されたという考え方があり、その窯は、小川が流れる古我知の地で山原の陶工らによって、少なくても1809年頃までは窯の火も赤々と燃えていたと考えられます。

古我知窯では、日常雑器類を中心にして水甕、大小の壷、徳利、皿、碗、そして厨子甕にいたるまで、約31種類以上の陶器が焼かれていたといわれ、主な流布地は、本部半島を中心にして、北は国頭、南は大里まで運ばれているのが知られています。古我知焼の技術はすぐれ、緑色や灰緑色の釉薬を使ったのが多く、焼成温度が1250度にも達していたと思われます。その特徴は、釉薬を布やワラでふく手法で、陶土は近くで採れる粘着性の強い白粘土が用いられています。

山原の地で焼かれていた古我知焼は、その理由は定かではありませんが、那覇の壷屋焼にその地位を譲り窯の炎を消してしまいます。