屋我の人口と産業

近代の屋我の人口の動きを見ると、まず明治13年は戸数28、人口123(内男62)である。同36年には192人(内男97)で、この間約1.6倍に増えている。同年の平民161人に対し士族は33人(17%)で、羽地間切ではやや士族人口の割合が商い。下って昭和14年には戸数31、人口142人(内男71)を数え、それまでの60年間に15%ほどの増加をみた。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和39年258人、昭和50年210人、昭和60年248人と、途中やや減ったもののほとんど変わっていない。昭和28年に屋我地大橋が奥武島を経由して本島の真喜屋側に架設され、島内へのバスの乗り入れが始まった。7年後の昭和35年チリ津波のため大橋は破壊され、再び渡し舟での通行となり不便を強いられた。3年後の昭和38年美しいラーメン型の屋我地大橋が再建され、交通の不便さは解消された。

屋我の産業は(就業者構成表参照)、就業者136名の内、第1次産業28%、第2次産業40%、第3次産業32%という構成で、第2次産業(とくに建設業)の比重が高い点に特色が見られる。15年前との比較でいえば、第1次産業が減少した分、第3次産業が増えたといえる。

屋我の農業は(農業基本統計表参照)、経営規模が小さく、しかもキビ作に集中している点が特徴である。

漁業従事者は9名おり、整備された屋我桟橋を拠点にしている。

出典:「わがまちわがむら