瀬嵩の人口と産業

◆瀬嵩の人口動向

沖縄戦下、山奥に避難していた地元住民や中南部からの疎開・避難民は、昭和20年7月初旬、米軍の勧告に従って山を下り、久志の北部では瀬嵩を中心として各字に収容された。瀬嵩には、久志国民学校(現久志小学校)に米軍の司令部が置かれた。同年8月には、大浦以北の瀬嵩地区の人口は約3万人を数え、瀬嵩だけでも6,669人に達した。9月には、「地方行政緊急措置要綱」によって市会議員選挙(20日)と市長選挙(25日)が実施され、瀬嵩市が成立した。市役所は久志国民学校に置かれ、総務課・社会事業課・教育課・衛生課など7課の組織に、市会議員らも配置され、行政運営に当たった。図に見るように、中央の馬場に面して食糧配給所や警察署が、また東側には病院などが設けられた。収容された人々は、各民家はもちろん、鶏小屋のような建物にひしめきあって住んだ。浜では、暑い青空の下で学校も再開された。11月から中南部の人々の帰村が始まり、翌22年1月には瀬嵩市と南の久志市が合併し、もとの久志村に戻った。当時の瀬嵩市の人口は11,336人であった。また、瀬嵩のみでは3,194人を数えた。そして、中南部の人々がそれぞれの故郷に帰村して、地元も落ち着いた翌22年10月には、戸数139。人口543人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人日の動きは推移グラフに見るように、同年67世帯。人口380人である。人口は、昭和44年頃まで僅かづつ減って300人規模までになったが、同54年にかけて増加し、同年531人を数えた。これをピークに、その後は僅かではあるが減少し、昭和60年現在503人を数える。25年前に比べると、1.3倍に増えている。世帯数は、僅かながら増え続け、昭和54年の103世帯を最高に、同60年現在85世帯である。25年前に比べて、18世帯(1.3倍)増えている。

◆瀬嵩の産業

瀬嵩の産業の現状を産業別就業者の構成について見てみると(同表参照)、 就業者117名の内、第1次産業17%、第2次産業22%、第3次産業61%という構成で、第3次産業に従事する人が多い。第3次産業では、サービス業が3分の2を占めている。第2次産業では建設業が多い。

農畜産業の占める比重は小さいが、それについて見ておく(農業基本統計表参照)。 現在農家は31戸で、全体として13haの経営耕地面積を有している。15年前に比べて、農家は半分近くに、また経営面積は7割に減った。作物はキビが中心であるが、果樹(温州ミカンが主)や野菜類も重要である。昭和59年度には瀬嵩野菜団地(ビニールハウス約1ha)

が整備された。

畜産は、近年畜舎が建設されたこともあり、肉用牛の飼養が急増している。

瀬嵩には久志農協が立地し、関連して久志農協集出荷場(昭和56年度)や機械格納庫(同54年度)などが整備された。