区別された安息による聖なる
2022. 8. 7.
白寅天
n 出エジプト 20:8
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
n レビ記 20:7, 26
7 あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。
26 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』
---
聖であることは神の品性であり、神の救われた民はこの聖であるようになるべきです。 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(Iペテロ1:16) 聖なることは清さととても近い関係です。「キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」(エペソ5:26)。清くなることによって聖なるようになります。清いことは銀が精錬されて不純物が無くなることのように、罪の汚れたことがその人生で無くなって聖潔になることを意味します。
主は、IIテモテ 2:21で、自分を清くする時、すなわち聖であるとき、主が使われる器となると言われます。聖なることは区別されることを意味します。あらゆる多いことで何項項を区別して別途で使うように、聖なることは多いですが汚いことから神が選ばれて区別したことを意味します。今日の御言葉は安息日を覚えて聖なるように守ると言われます。多い日々中で、すなわち、世の働きの日から世の働きをしない特別な時間を作ることです。その時間は主が創造の後休んだように、働かないで主を覚えて礼拝することです。聖なるように区別されて生きることです。安息は聖なることで集中して生きることです。われらの肉の弱さを知るからだと思います。このように聖なることを区別されることです。われらが生きるあらゆる時間の中で聖なる時間を区別することが必要です。この安息の時間が無いと罪になることです。しかし、実際に安息日は主のためではなくわれらのためにあることです。時間を区別して安息の中でいることが自分のために必要であることです。主はあなたの所でわれらが来て交わりし礼拝することを待てておられます。その祝福を深く経験する私たちとなりますようにお祈りします。
【教会通信】
・主の日が近づいているのを見て、主が清くあられるように自分を清くする人生を過ごせますように、このために、毎日真の悔い改めをもって自分が主と共に死んで、主が生きて、御霊様の実を豊かに結ぶ人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、毎日、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。また、恐れおののいで御霊様の導きに従って自分の救いを達成する人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、自分の人生で一番貴重な時間を区別して主に捧げて清くなり、主の聖なることにならいますように。
・兄弟姉妹たちが、夏休みの時間、健康の中で主と深く交わりする安息の時間となりますように。