山上の垂訓の八の祝福(1)
2019. 4. 7.
白寅天
n マタイ 5:1-4
1 この群衆を見て,イエスは山に登り,おすわりになると,弟子たちがみもとに来た.
2 そこで,イエスは口を開き,彼らに教えて,言われた.
3 「心の貧しい者は幸いです.天の御国はその人のものだからです.
4 悲しむ者は幸いです.その人は慰められるからです.
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今日からはイエスキリストの山上の垂訓の中で八の祝福について話します。主の日が近づいているこの時期は福音の本質を回復する時期です。今日のキリストの山の垂訓は、福音の大事な基礎です。普通、八の祝福は、クリスチャンの倫理や道徳、他にはこの世での祝福のための教訓として教えられています。しかし、これは天国に行くための御言葉、すなわち救いのための教えられたことです。一つの理由は、初め、天国は、心の貧しい者のものだと言え、最後に、義のために迫害された人のものだと言われるからです。
キリストの山上の垂訓の祝福を始める前、何項の改め枠を考えたいです。
1.八の祝福は、クリスチャンの人格や良い品性を言うことではなく、ここで出る姿は私が真に救われたのかを表すことです。ここで言われることが私にあれば、それを真に求めているなら、それが生まれ変わったことです。
2.この八の福は、ランダムに書かれたことではなく、主が救われた人々から出られる様子をちゃんと企画されて言われたことです。
3.ここで出る祝福はこの世の福、すなわち律法の規則ではなく救われた人々の恵みの規則によることです。
ここで、幸いである(Blessed)の意味は、マカリオスで喜ぶの意味があります。それで、心の貧しいことが自分から現れるなら、喜びなさいの意味です。その救われた人の特権によって喜びなさいと言うことです。
3節、心の貧しい者の意味は、この世で自分いついて絶望したことです。心が自分には貧しいけど、神様には豊かなことです。神様に謙遜に神を求めることです。
4節、悲しむものは、自分の姿について悲しむことです。放蕩の子のように生きても、長男のように神の中で自分の最善を尽くした人も悲しむことが無ければ、救われていないです。真に悲しむ人は神の依頼を経験します。主の御前、貧しい心を持って自分の罪に悲しむ人生を過ごせますようにお祈りします。
【教会通信】
・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い娘の人生を過ごせますように、このために、毎日真の悔い改めをもって自分が主と共に死んで、主が生きて、主が自分の真の主人となって生けますように。
・兄弟姉妹たちが、毎日、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。また、恐れおののいで御霊様の導きに従って自分の救いを達成する人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、貧しい心を持って主に行き、自分の罪について悲しんで、主の慰めを経験しますように。
【お祈り下さい】
・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。
・主の愛に励まされ、隣人を愛し福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。
・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。