高慢の罪
2022. 7. 24.
白寅天
n エレミヤ 13:9-11
9 「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。
10 わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。
11 なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。―主の御告げ―それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。
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今日の御言葉で、エレミヤに言われたことはBC 608年ごろ、ヨシア王が死んでユダがエジプトに属されているし、バビロンが攻撃して来る時、その国の力が無くなる時です。実際に、主が言われたユダに向かう70年の裁きが始まった時です。主は、エレミヤに帯を買って正常的に腰に使うと言われ、また、川の水の中で置いて腐らせるようにされました。その意味は、ユダが神に属されて栄耀と栄光になるようにされたが、彼らが聞かないので、彼らを朽ちるようにすることです。ここで、彼らが腐らせるようになることは高慢からだと言われます。高慢によって耳を傾けてなく、聞かないで、高慢によって真実な神を捨て、他の偶像に行き、自分の神としてすることです。口では神を求めるが、その心は偶像に行っています。
預言書を見ると、イスラエルが滅びた理由は高慢から(アモス、ホセア、イザヤ)であり、ユダも同じ理由であり(エレミヤ)、バイロンから帰ってからも同じです(マラキ)。これを見ると人間は高慢で有る存在で、高慢の罪から避けない存在と見られます。高慢は謙遜といる時が有っても、瞬間、自分も知らずに高慢な状態に落ちます。
エレミヤ15:-4で、神の民の救いと導きのために使われた、モーセとサムエルがいても、主の心がこの民に向かってないと言われた理由がヒゼキヤの子、マナセの罪からだと言われます。この主の怒りが始めたことはヒゼキヤの高慢からです(歴代下 32:24-26)。彼のように神に従って仕えた王がないけど、彼も、瞬間に高慢になるし、その子供はユダを滅びに追い出したことです。人の罪の元、エデンの山からあった高慢の罪は、いつも遜る状況で、主の助けによって落ちらないように注意するべきです。
【教会通信】
・主の日が近づいているのを見て、主が清くあられるように自分を清くする人生を過ごせますように、このために、毎日真の悔い改めをもって自分が主と共に死んで、主が生きて、御霊様の実を豊かに結ぶ人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、毎日、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。また、恐れおののいで御霊様の導きに従って自分の救いを達成する人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、高慢の罪に落ちらないように、いつも謙遜をもって主の十字架に行き、目を覚まして自分を顧み、主に従う人生を過ごせますように。