罪の悟り―主の栄光の前で
2016. 10. 9.
白寅天
-----
- ルカ 5:6-8
そして,そのとおりにすると,たくさんの魚がはいり,網は破れそうになった.
そこで別の にいた仲間の者たちに合図をして,助けに来てくれるように頼んだ.彼らがやって来て,そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ,二そうとも沈みそうになった.
これを見たシモン·ペテロは,イエスの足もとにひれ伏して,「主よ.私のような者から離れてください.私は,罪深い人間ですから.」と言った.
-----
罪の悟りは悔い改めの初めであり、先行条件です。それで自分の罪を悟ることは自分の救いのためにあるべき、一番基本的なことであり、大切なことです。しかし、人はまことに自分の罪を悟られないことが事実です。悔い改めが無いと救われないので、自分で罪を悟られないに悔い改めてイエスを信じ救われることは人の目では矛盾だと見えます。しかし、これが決して自分の理性や力ではなく、主の力によってできることです。この例は、今日の御言葉で書かれています。
ペテロはゲネサレ(ガリラヤ)湖で経験がある漁師として、その時間帯に湖の深みには魚が無いことを分かりました。しかし、彼は自分の経験ではなく、イエスの御言葉に従って網を下した時、多い魚が取られて二つの船にいっぱいになって船が沈むようになりました。これを見たペテロは「主よ.私のような者から離れてください.私は,罪深い人間ですから.」と言いました。主に会い主を見て経験した人は自分が罪人であることを見ます。主の栄光が力強く、光輝くからです。
誰も自分は罪人とは思わないです。そんなに重い罪を犯したことがないと思います。皆できる限り正しく生きるように頑張っているからです。理論的な罪、自分の弱さによる間違えは反省しますが、それが真の悔い改めには行かないです。聖書で罪は神からの栄誉を受けられないことだと言われます。神の栄誉は人間の肉と魂による清さ、義、知恵、純潔を超えることです。霊的なことです。神様が御自分の栄誉を悟らせて下さる人はその栄誉を見て、自分がどれほど汚れて滅ぶべきなのかを悟ります。放蕩の息子のように、本当に自分が行かなければならない道から離れて迷っているのかを悟ります。それを悔い改めて自分が行くべき道、主に向かって人生の方向をかわります。この人生がはじめ、主の日まで続けますようにお祈りします。
【教会通信】
・兄弟姉妹たちがいつも御霊の導きに従う人生を過ごせますように、このために、いつも主の御臨在の中で留まることができますように、また、主の恵みよって主の部屋に入って主に深く会うことができますように。
・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い乙女の心を持って生きることが出来ますように、また、キリストと共に死んで、共に生きる人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちまた、皆が、主の恵みによって主の栄誉を見てそれを受けるように、自分の罪を悟り、真の悔い改めをもって生きますように。
【お祈り下さい】
・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。
・主の愛に励まされ、隣人を愛し、福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。
・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。