#356(2017-6-4)

死ぬことと生きること

2017. 6. 4.

白寅天

n ガラテア 2:19-21

19 しかし私は,神に生きるために,律法によって律法に死にました.

20 私はキリストとともに十字架につけられました.もはや私が生きているのではなく,キリストが私のうちに生きておられるのです.いま私が,この世に生きているのは,私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです.

21 私は神の惠みを無にはしません.もし義が律法によって得られるとしたら,それこそキリストの死は無意味です.」

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人は年が高くなって寿命が尽きること以外に、極端的な絶望、虚しさ、難しい状態の中にいると死ぬことを考えると知っています。それはその状態を耐えることが出来ないからです。この世で生きる意味を失います。これを聖書が言われる自分が死ぬことと関連して話したいです。

聖書は何項の箇所で、自分の死について言われています。その死の意味についてまず御言葉によって考えます。死ぬことにはその対象があります。

1) ガラテア 2:19,20 – 自分の律法による行いから死ぬことです。代わりにキリストが自分の中で生きて居られます。

2) ルカ 15:24 – 父を離れて自分勝手に過ごすこと―父の所に帰ることが蘇ることとして思われる。

3) ガラテア5:24 – 自分の情欲や欲望に対して死ぬ。

4) ルカ 9:23 - 自分自身、自我について否認、死ぬこと。

5) 黙示録 1:18 - キリストの死、これは罪の支払いのために、蘇るために、信じる人々のモデル

聖書が言われる死ぬことは、その対象がこの世と肉と罪、すなわり、律法を行う自分の義、昔のパッタン、情欲と欲望、自我がキリストと共に十字架に付けられてその主の死に連合されること、また、キリストの蘇りに連合されて生きることです。死と言うのは、それについては何も力がないことです。死体何も出来なく、生命力なくいるようなことです。

誰が死ぬことが出来ますか?御霊様の洗礼によってキリストと連合された人です。主が極端的な状況からくるような変化を与えて下さいます。その心の変化、状況の変化を恵みによって与えられます。誰でも、自分の力で死ぬことはできないです。しかし、自分が死ぬ選択は自分がしなければならないです。時間がかかっても、放棄しなく、主に従うと主は答えられます。すべてが主の恵みによることです。主の恵みによってこの世について死んで、ただ主が生きて居られますように、御霊様の油をお祈りします。

【教会通信】

・兄弟姉妹たちがいつも御霊の導きに従う人生を過ごせますように、このために、いつも主の御臨在の中で留まることができますように、また、主の恵みよって主の部屋に入って主に深く会うことができますように。

・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い乙女の心を持って生きることが出来ますように、また、キリストと共に死んで、共に生きる人生を過ごせますように。

・兄弟姉妹たちが、キリストと共に十字架に掛けて、この世、肉の欲、罪に対して死んで、義に向けて生きる人生を続けることが出来ますように。

お祈り下さい

・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。

・主の愛に励まされ、隣人を愛し、福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。

・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。