#225(2014-11-09)
【メッセージ】『十字架での主の死と尊い血による信仰』 白寅天師
ガラテヤ人への手紙 2章 20節
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わ
たしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しか
し、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのため
にご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのであ
る。
ペテロの第一の手紙 1章 2節
すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるため
に、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっ
ている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
▼私たちは、今日の御言葉、カラテヤ2:20の通り、キルストを信じる時、キリストと共に死んで、
蘇られて新たな者が造られた、生まれ変わったことは良く知っているし、暗記します。しかし、こ
の以上、この真理が私たちの人生で影響を与えて、我らの人生が死んで生きた人のように住んでい
るのかを考えると、キリストと共に死んだことが私たちにその通りになっていないことを告白しま
す。主の尊い血によって注がれたことを知っているが、その経験がどうだったのかは、良く分から
ないです。キリストの十字架の死と尊い血に対して、またその力に対して良く知っているし、覚え
ても、それが自分の人生でどれほど力になっているのかは、まだ疑問であることが正直な考えだと
思います。▼旧約聖書で出る祭祀の儀式を知識的には知っているかもしれないけど、それが毎日真
の自分の儀式にならないと、それで、そこで私の罪を持って殺された動物の血が自分に注がれた真
の意味、すなわちキリストの血の意味を知らなくなります。毎日、キリストの尊い血の川の中に入
り、その血が自分に注がれて、その命の力を受けないと、私自身の自我が生きるようになります。
真の主の十字架の死の力を受けることが出来ません。▼どうすれば、主の十字架の血によって注が
られますか?それは真の罪の悟り、悔い改めと受け入れる信仰から来ます(使徒2:36-37)。それは
自分が主と共に十字架につけられ、葬られることから来ます(カラテヤ2:20、5:24、6:14、コロサ
イ2:12、ローマ 6:4)。それは自分、昔の者が十字架につけられて死ぬことです。またキリストと共
に生き返って、新たな命の中で住むことです。罪に汚れている私たちを清めするために、子羊イエ
スキリストを送って下さって、燔祭の祭壇の犠牲動物として、私たちの罪を持ち、無くなって血を
流した主の尊い血を心から覚え、自分が主と共に死ぬことが何時もあるべきです。この血は私たち
の信仰の人生のための理由であり、主と歩む力の元となります。