#436(2019-2-3)

救われる信仰と生まれ変わり

2019. 2. 3.

白寅天

n ローマ 6:8-14

8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば,キリストとともに生きることにもなる,と信じます.

10 なぜなら,キリストが死なれたのは,ただ一度罪に対して死なれたのであり,キリストが生きておられるのは,神に対して生きておられるのだからです.

11 このように,あなたがたも,自分は罪に対しては死んだ者であり,神に対してはキリスト·イエスにあって生きた者だと,思いなさい.

12 ですから,あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて,その情欲に従ってはいけません.

13 また,あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません.むしろ,死者の中から生かされた 者として,あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい.

14 というのは,罪はあなたがたを支配することがないからです.なぜなら,あなたがたは律法の下にはなく,惠みの下にあるからです.

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今日は、少し難しい話になると思います。聖書で書いている福音と救いの神秘を人間の制限された理性と知識で言うのだからです。

イエスを信じて救われた人は昔の者が死んで新たな者が生きたことを知っています。しかし、自分を見ても、隣を見ても、自我が死んで生きる人は見えないです。それは、救われた人がいないのか?他には自我が死ぬことは聖なる過程で救いとは関係ないことかと言う質問が出るようになります。実際にこれが易しい救いを言う根拠になると思います。

しかし、聖書はローマ6:4-5のようにキリストと共に死んで生きる人が生まれ変わった人で救われた人と言われます。この生まれ変わりは昔の自我の死を意味します。しかし、自我が完全に死んだ人が見えないので「私に自我が死んだ人を見せて下さい」と言うことがありえます。

ヘブル書を見ると、救いは、ただ恵みによってエジプトから出て荒野で心から従順する自我が死ぬ訓練を受けてカナアンに入ることで言われます。ペテロのケースでその姿が良く見えます。人々によって荒野での自我の死の時間が違います。その訓練、即ち自我が死んで生まれ変わりの経験をしても、また自我が生きていることを見つかります。その葛藤についてローマ7章で使徒パウロが告白しています。その説明として、その罪の底が何かの問題だと思います。生まれ変わらなかった人は昔の自分ですが、生まれ変わった人は自分の中である罪です。これが救われた人とそれではない人の差だと思います。それで、ローマ6:10のように自分を罪に対して死なれた者として思うべきです。この生まれ変わりは心から従順して、真の悔い改めとキリストの信仰を持つことから来ます。自我が死んで、自分を主に捧げることを心から従順する、真の信仰が何時もありますようにお祈りします。

【教会通信】

・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い娘の人生を過ごせますように、このために、毎日真の悔い改めをもって自分が主と共に死んで、主が生きて、主が自分の真の主人となって生けますように。

・兄弟姉妹たちが、毎日、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。また、恐れおののいで御霊様の導きに従って自分の救いを達成する人生を過ごせますように。

・兄弟姉妹たちが、毎日、自分を捨て、自分の十字架を負い、主と生きることが出来ますように。

【お祈り下さい】

・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。

・主の愛に励まされ、隣人を愛し福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。

・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。