キリストの信仰による行いの実
2019. 3. 24.
白寅天
n ヤコブ 2:22、24
22 あなたの見ているとおり,彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり,信仰は行ないによって全うされ,
24 人は行ないによって義と認められるのであって,信仰だけによるのではないことがわかるでしょう.
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今日は、今年の標語に戻って、油を準備することで一番大事な基礎である正しい福音によるキリストの信仰による生まれ変わりの人生について話します。聖書は行いによってではなく信仰によって義と認められることを言われます。「人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,信仰によるというのが,私たちの考えです.」(ローマ3:28)。今日の御言葉はこの教理は対立し矛盾と見えます。しかし、福音をよくわかる人はそこには、行いの属性が違うことを分かります。ローマ3:28である「行い」は救いのための義となる基準としての「行い」ですが、ヤコブ2:20-24での「行い」は救いの元になる「信仰」(しかし、人の心にあることだから目に見えない)から自然的に出るべき、信仰から結ぶ実(目に見える)である「行い」の意味です。これは、ある人が信仰を持っているのかを表すことが「行い」です。ここで私たちが注意してみるべきことは次の二つです。
1) 行いが無ければ信仰が無いことです。(ここで行いは自分の意志的な決断によって自分のすべての主に捧げて従うことです。)
2) 行いが有ればその元が何かです。(キリストの信仰なのか?自分の義なのか?)
信仰は自分から出たことではなく、キリストからの信仰を意味します。自己義はキリストが基礎になってないすべてのこと、即ち主人が変わってないから行うことです。聖書は1)の無信仰、2)の自己義に基づく行いについて良く警告しています。キリストの信仰は霊的な変化(全的な主の恵みによる変化、出エジプト)と魂の変化(知情意の変化、荒野の訓練)によって来ます。主の恵みによって十字架の御業による霊的な変化の後、主の真理を知的に理解して、自分の意志的に従うべきです。このテストを過ぎると主は恵みによってその主の信仰を与えられます。決して、自分の意志的な服従が無いとキリストの信仰は与えられないです。意志的な従順は真の悔い改めの大事な部分です。真の悔い改め、即ち、堅い自我を壊す、自分からの意志的な服従の道を走りぬき、主の恵みの信仰を受けて神様の義と認める人生、真の行いがある人生を過ごせますようにお祈りします。
【教会通信】
・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い娘の人生を過ごせますように、このために、毎日真の悔い改めをもって自分が主と共に死んで、主が生きて、主が自分の真の主人となって生けますように。
・兄弟姉妹たちが、毎日、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。また、恐れおののいで御霊様の導きに従って自分の救いを達成する人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、真の悔い改め、即ち、堅い自我を壊す、自分からの意志的な服従の道を走りぬき、主の恵みの信仰よる真の行いの実を結ぶ人生を過ごせますように。
【お祈り下さい】
・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。
・主の愛に励まされ、隣人を愛し福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。
・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。