十字架で自我の死と復活
2018. 11. 18.
白寅天
n ルカ 9:22-23
22 そして言われた.「人の子は,必ず多くの苦しみを受け,長老,祭司長,律法学者たちに捨てられ,殺され,そして三日目によみがえらねばならないのです.」
23 イエスは,みなの者に言われた.「だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,日々自分の十字架を負い,そしてわたしについて来なさい.
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我らのこの世での人生は救いに向かう旅程です。所謂言われる、称義と聖化の救いがそうです。聖書はイエス・キリストによる救いを言われます。その救いは生まれ変わりを通してなさると言われます。生まれ変わりは真の悔い改めと信仰によって水と聖霊による洗礼を受ける時行われます。この真理について誰も異論はないですが、各人々について実際にそれが何かについては異見があり論争があります。しかし、この異見についても、聖書と一致の御霊によって解決が出来ると信じます。
真に生まれ変わりのために、真の悔い改めを通して主と共に死ぬなら主と共に生きることが必要だと言うなら普通次の質問をします。「何が真の悔い改めなのか?」「何が真に主と共に死んで生きることなのか?」人々がこの質問をするけど、私たちが真の心をもって主に聞くと主ははっきり教えて下さいます。また、多い説教者たちを通して真の悔い改めが何かを教えて下さいました。明確なことは、真の悔い改めは口だけではなく、また、良心の呵責や自分での本当の反省が真の悔い改めではないことを私たちは知っています。この悔い改めでは、全的な主の恵みの照らすことが有って罪を悟り、主の働きがあり、われらの真理についての選択と従順があるべきであることを分かります。
十字架で死ぬことは主の十字架の苦しみに参加することです。その時、主の苦しみと御心を分かります。主の恵みによってその苦しみを通過しながら経験することです。ですから、十字架が無い信仰と献身は意味が無いことです。また、この使徒復活が毎日続けるべきです。これが無ければ、不信者のような人生を過ごすこと、他には外には献身、使役、奉仕があると見えるけど、内面で隠された自我と欲望によって生きることが出来ることです。毎日、自分を捨て、自分の十字架を負う時、キリストの復活がわれらの人生で力として表れ、昔の者の姿が過ぎ去って、主の形によって作られた新の姿表れることです。自分がいる場所で、自分を捨て自分の十字架を負い主が生きておられる人生を過ごせますようにお祈りします。
【教会通信】
・兄弟姉妹たちがいつも御霊の臨在の中で、霊と真によって礼拝する真の礼拝者の人生をすごせますように、また、キリストの死と復活に信仰によって連合される人生を過ごせますように。
・主の日が近づいているのを見て、目を覚まして御霊の油を準備する賢い乙女の心を持って生きることが出来ますように、また、主の部屋に入って主との深い交わりの中で主に会う人生を過ごせますように。
・兄弟姉妹たちが、毎日、自分がいる場所で、自分を捨て自分の十字架を負い主が生きておられる人生を過ごせますように。
【お祈り下さい】
・教会の兄弟姉妹たちが主の花嫁として準備されますように。このために、いつでも目を覚まして主だけを愛し、主の至聖所に入り、感謝と賛美の祈りを通して主を経験する人生を過せますように。また、主の軍人として御言葉の剣と信仰の盾を持って、サタン、この世、また自分の罪との戦いで勝利する人生になりますように。
・主の愛に励まされ、隣人を愛し、福音を伝え、主が定められた霊魂が主に帰ることができますように。主を信じてない、隣人、親戚、友達の心を準備して下さいますように。
・主の教会が御霊様の力によって、自分の罪を悟って、へりくだる真の悔い改めができますように。また、御霊様の導きによって自分を捨てることが出来、狭い門に入る人生が過ごせますように。