わーくすてーしょんのあるくらし ( 388 )
大橋 克洋
katsuhiro.ohashi@gmail.com
わーくすてーしょんのあるくらし ( 388 )
大橋 克洋
katsuhiro.ohashi@gmail.com
<2025.08 このコラム書くにあたって | >
NHK大河ドラマ「べらぼう」の一場面では、田沼意知の寵愛をうけ身請けを待つ幸せ一杯の吉原の花魁。そこへ舞い込んだ意知の刃傷による突然の死。幸せの絶頂から奈落の底へ突き落とされる花魁の姿を観ていて思ったこと、、人生には青天の霹靂のようなどんでん返しがあるんだよなあ、、
私の人生も、平穏な航海を続けていたところ突然の大嵐、帆柱は倒れ帆は裂ける大波乱の中、何とか時間を掛け元の平穏な航海に戻せたという経験を何度かしてきました。この時、どう感じ、どう生きたか
私がインターンを終えた4月、慈恵医大の産婦人科医局に仮入局(学生運動が吹き荒れていた当時、医学生の多くは国家試験ボイコット。医師ライセンス無く、我々の学年は仮入局でした。やがて秋に試験を受け資格を得て本入局)。その6月、父が大橋医院に新しく導入した X 線装置を朝早く見に行って、突然 脳溢血で倒れました。それまで、大樹のように頼り甲斐ある父の元、安心しきって暮らしていた母・私・弟の生活が一挙に崩壊。のほほんと生きてきた私も、長男としての自覚を持たざるを得ない。医局では お産の当直、家に帰っても当直、365日当直で夜中に起こされる生活が2年ほど続いたでしょうか。父の兄弟は皆医者でしたが、全員脳溢血で倒れています。そんなことで私も将来を考え26才で結婚、28才で医局を辞め開業と、通常より早い人生を歩んできました。
最初のお見合いで即 結婚。ほぼ年子のように2姫2太郎の4人の子供を得、毎晩のように夜中のお産で起こされ、父から受け継いだ大橋産婦人科で忙しくしていました。ある年の正月休み、子供達を連れ妻の実家を訪れている時、突然、妻が周りに反応せず虚になることがありました。妻の両親と思わず顔を見合わせたのですが、ほんの1分もせず元に戻りました。正月明けとともに慈恵医大脳外科を受診させ自院の外来診療をしていると、脳外の教授から電話「脳腫瘍です」とのこと。それでも私はまだ楽観的に「手術すれば治りますよね」。教授はちょっと間をおいて「いえ、保って2年でしょう」頭から血の引く思いとはこのことか。小学校入学したての長女から、まだオムツの末息子を抱え、寝たきりの父を介護していた母も体調を崩してしまいました。4人の幼児と2人の病人、元気なのは私一人。考えたことは「これだけ続けて最悪なことが起こったなら、次に起こるのは何か良いことに違いない」の開き直りでした。
人生に必ず起こる青天の霹靂。行き交う人混みの中を歩きながら「何でこんなことが、よりにもよって自分のところへ来るんだ」「これはきっと悪い夢、目を覚ましたら何も変わっていないかも」と何度も思いました。こんな時、誰もが思うことのようです。
関東大震災や太平洋戦争で招集され戦地の経験をした父がよく言っていた「人生には、必ずこのようなことが何度かあるぞ」私は幸運にも父のような経験はせず逃げ切れるかなと思っていますが、私にとって上記がそれに相当するものなのかも知れません。「どんなことに直面しても、慌てることなく、ただ淡々と対応していれば、必ずまた平穏に戻ることができる」と私は思っています。
私が好きな そして尊敬する本田宗一郎氏の言葉「人生は、見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり、聞いたりばかりで一番重要な『試したり』をほとんどしない」。
この言葉に影響されたわけではありませんが、考えてみると私は「試したり」は結構好きな方です。多くの人が「見たり、聞いたり」で理解したと思い満足するものでも、私は可能なら「試してみる」のが好き。試してみた結果「ほ〜、なるほど〜」と新鮮な感動を受けることがあるからです。
例えその感動は微細なものであっても、体験として記憶の底に蓄積され、何かの時に自信になったり役に立ったりする基となります。「見たり、聞いたり」は次第に薄れてしまいますが、「試したり」は印象として刻印されるからです。体験として実感したことは本当の理解、または確信につながります。
そんなことで どっぷりハマり、人生に大きな活路を開いてくれたものの一つが、世に現れたばかりのパーソナル・コンピュータでした。
<2025.08 このコラム書くにあたって | >
次のネタ考え中、、、
当月中は随時内容を更新しています
時々のぞいてみてください
最近は面子などにこだわらず
少しずつ進む老化現象も正直に記録することにしています
なあるほど人間はこうして老けてゆくんだと参考まで