小学校時代(2)

○ 平塚小学校へ移動

私が4年生の時、この焼け跡に新しく平塚小学校が建ちました。 そもそもが小学校の建物を終戦直後区役所に使っていたのが、 火事になったのを機会に小学校にしたのではないかと思います。 平塚小学校が建つとともに、 こちらの学区の同級生達と平塚小学校へ移動しました。 引っ越しの時はリヤカーに椅子や机を載せ、 生徒たちで引いてきました。

当時の校庭には、まだ小石や瓦の破片などが散らばっており、 生徒が横一列に並んで小石拾いをしました。 後年、慈恵医大の予科に入った時も、まったく同じように 国領の慈恵医大第三病院裏にあるグラウンドの小石拾いをしました。 私たちはそのような世代だったようです。

ある時、永吉君という同級生が校庭をならすための コンクリートでできた重いローラーを友達と引っ張っていて 足を轢かれ骨折しました。 現場にいなかった担任の水田先生は大変責任を感じておられました。

○ 風邪をひきやすかった小学校時代

この平塚小学校時代は比較的楽しく過ごせた時代でした。 よい友達が多く担任の水田先生も良かったからでしょう (これに比べ麻布中学・高校時代は周りに優秀で気位の高い生徒が多く、かなり萎縮した時代を過ごしました)。 私は子供の頃、どちらかと言うと引っ込み思案でした。 風邪を引いて学校を休むと、 学校から近いこともあって同級生の男の子や女の子が見舞いに来てくれます。 それが恥ずかしく布団をかぶったまま顔を出すことができませんでした。

現在では何年に一度しか本格的な風邪を引くことはありませんし、 歯の治療以外で治療を受けることもめったにありませんが、 小学校の頃はよく風邪をひいては学校を休んでいました。

○ 大嫌いな運動会

体操の授業は嫌いではありませんでしたが、 運動会は小山小学校時代から苦手でした。 走るのが遅かったのが一番の理由と思います。 後日、心臓に右脚ブロックがあることがわかりました。 このため瞬発力を要する運動では息が切れてしまいます。 おそらくこれがベースにあったためでしょう。 そんなことで、跳び箱とか障害物競争などは得意でしたが、 運動会がイヤで運動会でかかる「ウイリアム・テル」 などの音楽を聞くだけでドキドキしたものです。

○ 平塚小学校の同窓会

卒後十年ほどして何度か同窓会が開かれ、一緒に映画を見に行ったりしたことがありました。 新宿コマのダンスホールに皆で行ったこともありましたっけ。20代前半の男の子・女の子たちの頃

その後、同窓会は何年かに一度ポツンと開かれる程度でしたが、五十代半ばになった頃から毎年定期的に開かれるようになりました。 地元の小学校なのに、現在も地元に残る人間は少なく多くが各地へ散らばっています。 それでもいつも十数名集まり食事をしたりカラオケを歌ったりして過ごします。

男性は当時の面影そのままなのに、女性には当時の面影を思い出すのにしばし時間のかかることが多く、 それでもしばらくすると面影が蘇ってくるのでした。小学校時代の印象はかなり跳ね返りだったのに、 今はとても穏やかで常識的、品の良い感じになっていて、ああ、その後平穏で幸せな生活を送ってきたんだろうなと思わせる方もありました。

○ 自宅を増築し洋式生活へ

小学校5年の頃だったでしょうか、父が自宅を増築しました。 1階がワンルームの子供部屋、2階がワンルームの両親の寝室です。 これで今までの畳部屋2間のシンプルな暮らしから、 洋式の暮らしへと変化しました。

増築の後、叔母から血統証つきのカナリアをもらいました。 「ルル」という名前をつけましたが血統証つきだけあって声量は凄いもので、 鳴き出すと窓ガラスがビリビリいいます。 小学校の校庭で朝礼をしていると、 バス通り越しに私の家で鳴いているルルの鳴き声が聞こえてくるほどでした。バス通りには車が通っていましたが、まだ周囲の騒音はひどくはありませんでした。

当時このバス通りは舗装されていましたが、バスが通過するたびに木造の自宅が揺れたものでした。舗装はされていても現在の舗装とは質がかなり違っていたんでしょうね。

当時まだ TV はなくラジオの時代でしたが、 TV の実演の映画(だったんでしょうね。 夜間、平塚小学校の校庭に幕を張って写すのを見た覚えがありますから) がありました。 私が中学校の頃 TV が一般に発売されるようになりましたが、まだかなり高価でした。 籾木の祖父の家で TV を購入した当時、 日曜になると TV 番組を見に親戚が集まったものです。 われわれもその一人でした。 映画「三丁目の夕日」にも、そんな情景が描かれていますね。

ラジオの時代

TV が一般に普及するのは私の高校時代以降のこと。それまではラジオの時代でした。ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」「おらあ三太だ」とか、もう少し後になると「うっかり婦人ちゃっかり婦人」など。相撲の実況も聴いていましたね。記憶に残るのは、あんこ型の東富士・照国、筋肉型の千代の山など。千代の山は子供たちに人気でした。小学校友達と遊ぶメンコにも、これら力士の姿が印刷されていましたっけ。

TV と違ってラジオの良いところは、想像で状況を思い浮かべるところ。それなりラジオドラマを楽しむことができました。ある夏の夜、祖母が独りで祖父の帰りを待っていたそうです。ラジオでやっていた怪談、裸電灯がひとつ灯る夜、独りで聴いているとそれは恐ろしかったと、、

ある日ラジオを聴いていると「火事場から大橋青年の遺体、自殺か」というニュースが耳に飛び込んできました。父の5番目の兄、正雄伯父の息子四郎さんが家出した結末でした。どういう状況だったのかはわかりません。

遊び

私は幼少時よりモノ作りが好きだったので、前述のように廃材で家を建てたり、中に入れる大きさの木造戦車を作ったり、庭に穴を掘ったり。近所の子供たちともよく遊びましたが、遊びは何だったのかなあ、よく思い出せませんが、隠れんぼとか、鬼ごっことか、馬跳びとか、、

この頃の遊び仲間の大橋信孝君とは、70代になってから毎月定例呑み会をやっていました。5年ほど続いたこの会、呑み会後はカラオケをセットにして楽しみでしたが、彼の突然の病死により幕を閉じたのは残念。

終戦まもなく、近くの駄菓子屋に飛行機のソリッドモデルを作るための木材キットを売っていました。プラモデルが出る十年以上前、当時は木材を削って形を作るのでした。プラモデルのように形ができているものではなく、ずっとテクニックを要しました。戦争中日本を焦土にした B29 のソリッドモデルもありました。

平塚小学校ができる前、焼け跡に溜まった水でできた池でゴム動力の船を浮かべて遊びました。ゴム動力の飛行機を作ったこともありましたね。

大橋医院脇の路地に紙芝居が来ていた頃もありました。覚えているのは「黄金バット」とか。水飴を買わな子は観ちゃ駄目とかあったのかな、、