住居・診療所を建て直す

○ 縁は異なもの

先妻が亡くなったあと、思いがけず縁あって再婚。 本業はさておき、そもそも私は昔から女性には殆ど縁がないのに、こんなタイミングで縁があるとは。 後述するように、初恋の縁をとりもち、しくじった神による最後の埋め合わせだったのではと。 彼女は初婚、こちらは先妻の子供4人がいるということでいろいろありましたが、結果的にはそのような状況でよくやってくれたと本当に感謝しています。 子供を新たに1人もうけ、子供5人の家族となりました。

だいぶ後になってわかったことですが、彼女の曽祖父が九州で医者と代議士をやっていたことを知りました。 私の母方の曾祖父も九州で医者と代議士をやっていたそうですから、両方の曽祖父同士は顔見知りだったはず。 曾孫同士の結婚を喜んでくれていることと思います。

このように興味深い因縁はいろいろあります。初恋の彼女が最後に彼女の彼氏とともに話しをしたいと云って訪れたのが四谷の上智大学内にある セントイグナチオ教会でした。その後結婚した最初の連れ合いも上智大出身でしたが、後添えも上智大出身。 考えるにセントイグナチオ教会に居合わせた神様が「よしよし、今度は良い相手を世話してやるからな」と見合いの相手を連れてきたところが突然の病死 「しまった、今度こそ3度めの正直」ということだったのではないかと想像しています。

亡くなった家内の母が、娘の余命幾ばくもないと知ると彼女をクリスチャンに改宗しました。その家内を義母がよく連れて行ったのが、初恋の彼女をよく送り届けた田園調布教会というのも因縁のひとつでした。その他にも、私の高校の同級生が前の連れ合いのスキー部の先輩だったとか、 後の連れ合いの親友が私の馬術部の後輩の連れ合いだっとか、いろいろ思いがけぬ偶然がありました。

○ 等価交換で住宅・診療所を新築

開業して10年ほど経ち、診療所を鉄筋にしたいと考えることがありました。 大きな理由は当時この近辺で放火が立て続けにあり、木造の入院施設を持っていると火事が一番心配でした。 そんな時、生命保険勧誘のおばちゃんと雑談していて 「鉄筋にしたいけれど財政的に到底無理」と話をしたところ「一銭もなくても建て替えできますよ」とのこと。

等価交換方式というのがあって、土地をデベロッパーに売却、デベロッパーがマンションを建て、 売却した土地に相当する分が自分のものとなるということです。大成建設を紹介してもらい、 早速やってきた大成の営業さんと話を進めると「先生の土地は複雑な形をしているので、隣接した地主と協同にするのはどうですか」とのこと。 私に異存はないので早速隣接2軒に話を持って行くと、どちらの地主からも賛同を得ました。 もともと診療所の一部は借地で、借地の地主も入れ4軒での協同プロジェクトとなりました。

建築中の仮診療所を探さねばなりません。 終戦直後、父もお世話になった近所の栗原先生に話をすると、折よく栗原医院もいずれ改築予定で木造の入院棟が空いているよし。 一部をお借りして仮診療所にさせてもらいました(数年後、栗原医院が建て替える際には、こちらの診療所の一部を仮診療所スペースとして提供しました)。 仮住まいの方は家内が探してくれましたが、子供5人というと嫌がられることが多く困りました。 家を汚されるのを心配するのでしょう。幸い久が原に適当な物件がみつかりました。木造2階建てでここもいずれ建て替えるので、 子供5人居ても構わないとのこと。引っ越してみると床がやや傾きボールを置くと自然に転がるような家でしたが、子供5人でも余裕で暮らせる広さの一戸建てでした。

○ オフロード・バイク

仮住まいに移ってから夜中にお産で呼ばれることがよくありました。最初は自転車を使っていたのですが、仮診療所まで5キロ半ほどあり結構時間もかかります。そこでバイクを買うことにしました。高校時代、父に「バイクが欲しい」と言ったところ「危ないから4輪にしろ」と云われ断念したことがあります。もう父も故人になったことでもあり、念願のバイク購入。私の頃は高校生で自動車運転免許がとれ自動2輪もついてきたのでナナハンでも運転できますが、 買ったのは原付きクラスのホンダ・ラクーンでした。

初めてのバイクに慣れるのはちょっと大変でした。交差点近くなると右手と左足でブレーキ、左手でウインカーを操作しながら、右足でシフト・ダウン。車は待ってくれません、何が何でも時間内にやらねばならない。しかも身体はバランスをとっていないと倒れる。脳のトレーニングには良いのでしょうが、聖徳太子のようにあっちこっち神経を行き渡らせるのが自然に身につくまでは隔靴掻痒の感でした。 後から考えると、いきなり最初から公道で初乗りし仮住まいまで帰ったのは、ちょっと。 40才で反射神経などもギリギリの年齢だったと思いますが、本当に怖いもの知らず。事故らなくて良かったなと、、

信号が青になってのスタートで原付きでは4輪より先に出られないのが怖くなり、 数ヶ月でホンダXL250S に買い換えました。馬術部出身とあって以前からオフロード・バイクに憧れていたのです。 オフロード・バイクは大抵2サイクルで、セルモーターでなくキック・スタート。 立ち上がってキック・スタートが、何ともバイクらしいというか男らしい感じもして私は大好きです。 さすが格段にパワーがあり、シグナル・スタートでも4輪をさしおいて一気に前にでられるようになりました。 かなり満足の行くバイクでしたが、オフロードとあって背が高く停止すると両足のつま先しか地面に付きません。 うっかり坂道で停止したところ、左が高く右が低い傾斜だったため右足が地面につかずあやうく転倒しそうになりました。 サドルをはずし、中のアンコを包丁で削り低くしました。これで両足が安定して着地できるようになり一安心。

同じ道を走っても車とバイクで感ずるものはまったく違うと云われます。それがよく分かりました。身体に受ける風はもちろん、景色も臭いも本当に違うのです。 車で走っている時そんなことは一度もなかったのに、夜道をバイクで走っていると街角でいきなり警官に止められることがよくありました。 ヘルメットをはずし顔を見せると、若者ではないことに気づき無罪放免になるのですが。いつも車で走っていてあんな所に警官いたっけと。 暮れの夜道を走っていて凧糸であやうく首を切られそうになったことがあります。道を横切って右から左へ電線に引っかかったタコ糸が垂れ下がっており、 それが丁度首の位置。気がついても、なまじ下手に避けたり急停止したら危なかったかも知れません。 北風に身をさらして乗るのは辛いかなと思ったのですが、温かいエンジンを股に挟んでいるので意外に温かい、これぞ股火鉢。

住居が完成近くなる頃、再びバイクをトライアル競技用 ホンダTL125 に替えました。 もうデカくパワーのあるバイクには一応満足したし、もうそんなバイクに乗る歳でもなかろう ということと、岩場を軽量バイクでひょいひょいと飛び歩く トライアル競技は馬術に共通するところもあり、 とても興味を持っていたのです。バイク屋の親父も1年間に原付きから始めて3台もバイクを買い換えたのにはあきれていたのではないかと思います。 店にとっては良いお客なので何も言われませんでしたが。

TL125 はトライアル用とあって、サドルは自転車のものより小さく荷台もありません。 サドルが低いので足は地面に着きすぎるほど。多摩川の河原に乗り入れ、地面の小さなコブを飛び越えてみました。 おー、随伴(馬の動きに身体の動きを添わせること)は障害馬術とまったく同じ。「これは面白そう」と思ったのですが、 それから間もなく住居が完成して通勤もなくなり、バイクに乗る機会も少なくなりました。

XL250 の頃、縁石を越え歩道に上がろうとした時、深い角度で上がれば問題なかったのですが、浅い角度だったので危うく転倒しそうになったことがあります。 幸いバイクが重くスピードがあったので、慣性の方が強く転倒しませんでしたが、ひやっとしました。 このように初心者ゆえのことではありますが、他にも怖い思いを何度かしました。本当に運が良かったなと、、 「河豚は食いたし命は惜しい」、独り身ならこのままバイクに乗り続けるところですが、 家族のある身で乗るものではないなと思い、住宅完成後しばらくして きっぱりバイクをやめました。 自分がどんなに気をつけても、車にドカンとやられればそれっきり。

○ グリーン・プラザ武蔵小山

1981年5月に取壊しを始め、1982年7月末に13階のマンションが完成「グリーン・プラザ武蔵小山」と命名されました。 以前、同じ医師会の刑部医院の鉄筋への改築で、周囲に「建築反対」のビラがベタベタ貼られ 反対理由に「救急車の音でうるさくなる」などがありました。「住民のエゴ」を見せつけられ「大変だなあ」と思ったものです。 私のところもまだ美濃部都制が尾を引いている時代で日照権問題で近隣から散々吊し上げをくいました。 「日が当たらなくなる」は妥当としても「富士山が見えなくなる」という反対意見もありました。 やがて高層マンション林立する時代となり、日照権による反対は見当たらなくなりました。

マンション居住は初めてでしたが、最上階なので眺めが良く快適でした。 しかし人間は贅沢なもの、この景色に感激したのも最初の1週間ほど。出かける時、玄関の鍵を締めるだけで戸締まりが済むのはとても便利なものでした。 当時はまだ周りに高い建物がほとんどなく、360度眺めることができました。北に新宿副都心、池袋のサンシャイン、東京タワー、東へ目を向ければ 船の科学館を見下ろせ、夜は東京ディズニーランドの花火も見えました。池上本門寺本堂の屋根、やがて横浜のランドマーク・タワーや三日月型のグランド・インターナショナル・ホテルなど。南西には箱根から丹沢山系にかけての山並みや富士山などが見えましたが、その後次第に高層ビル群に3方を囲まれ、富士山の側だけが開けています。

1階が診療所外来部門、2階が分娩・手術室や入院部門。夜中にお産があるとエレベータで2階まで降り、お産が済むと上がってこられるのは便利ですが、 エレベータは一定時間使用されないと省エネのため照明が消えており、深夜のお産の時など 昇降ボタンをおすと停まっていたエレベータがゆっくりボヤーっと点灯される様はちょっと気持ち悪いもの。

○ 分娩をやめる

建替えを考え始めた頃、すでに産婦人科の世界では「産科は斜陽」と云われていたのですが、 へそ曲がりな私は「よし、それじゃあ、産科専門の施設にしよう」と設計を産科に特化したものにしました。 新しい施設ということで新築直後は分娩数も増え順調でしたが、いろいろと問題もでてきました。

1つ目は開業医のところに来る看護婦が少ないこと。まして助産婦となると絶望的。 入院の食事を作る賄いのスタッフを見つけるのもなかなか難しくなり、 最後は家内が自宅で産婦さんの食事を作り、それをお盆に載せ娘たちがエレベータで2階に運ぶこともありました。 私の父の代からの助産婦が近くのマンションに住み、夜中のお産でも元気に働いてくれていましたが、彼女も歳で いずれどうなるか。 深夜の分娩を私ひとりでこなすことは到底無理。

2つ目は産科医療の高いリスク。結果が悪ければとりあえず訴訟を受ける覚悟をしなければならない。 実際に訴訟を続けて受けたのはかなりショックでした。以前は「誠心誠意やっていれば、必ずわかってくれる」と思っていましたが 時代は変わり、そうではなくなりました。

3つ目は、少しずつ分娩数が減ってきたこと(その後しばらくすると、産科施設の減少で分娩数は逆に増えてきたはずですが)。 例え入院が1人もいなくても常に夜勤の看護婦を置かねばならず固定費は変わりません。 収入が減少すればテキメンに赤字となります。給与を払うため借金したことも少なからずありました。

経理士から「先生、もうお産をやめた方が経営状態は良くなりますよ」と云われていましたが、 父の代から長年続けてきたお産をやめるのは何とも踏ん切りがつかない。 結局2,3年悩んだあげく分娩の取り扱いをやめることに決めました。 お産の数の少なくなった1990年7月一杯をもって入院・分娩をやめることを告げたところ、 職員達も状況を理解し受け入れてくれました。 外来診療だけになり入院部門の職員は不要になります。 「転職先がないようなら私の方でも探すから」と言ったのですが、その必要もなく退職していきました。 「産科専門の施設で」との意気込みも10年足らずしか保たなかったということでした。

お産をやめ職員の去った2階病棟は何ともうら哀しいものでした。それまでは夜中でも必ず夜勤の看護婦が常駐し 人気の絶えることのない病棟でしたから。

外来診療だけとなり、収支は明らかに向上しました 「結局今まであくせく働いてきたのは何だったんだろう」と考えてみると 「職員たちを食わせるため」「借金を返すため」「税金を払うため」でしかなかった。 前2者の大幅な減少で、当然ながら税金も大きく減少しました。

入院をやっていて唯一良かったことと云えば、経費で高価なコンピュータなどの購入ができたことでした。 外来だけになると収支はともかく収入自体はずっと少なくなり経費に多くを割くことができません。 以前のように高価なコンピュータ購入の余裕はなくなりました。しかし それとともにコンピュータの価格がずっと下がってくるという、私はまことに良い時代に生まれたものです。