誕生・先祖

大橋家の家紋:丸に橘

タチバナの読みが太刀に通ずることから武家で使われることが多かったと言われる。井伊直弼の井伊家もこの家紋

○ 誕生

私は1942年3月23日に 信濃町の慶応病院の産科病棟で生まれました。 父が慶応の産婦人科医局におり、 父の親友の先生 に取り上げて頂いたと聞いています。 父のことですから、その場にいれば自分でとりあげたはずですので、 恐らく出張か何かで母のお産に立ち会えない事情があったのではないでしょうか。

それは昭和17年のことでした。 丁度その前の年の暮れに日本は真珠湾攻撃を敢行し、 太平洋戦争に突入していました。 克洋という名前は「太平洋を克服する」というような意味で 父が命名したのだろうと思います。 私のたった一人の兄弟である弟は正洋という名前です。 この名前はよく見るのですが、克洋というのは有名な アニメ作家大友克洋氏くらいしか見ません。 一文字違いのお名前です (web で検索してみると、立命館大学の助教授の方で同姓同名の 方がいらっしゃるようです。一度お会いしてみたいものです)。

○ 先祖について

大橋家は江戸時代は火消奉行だったそうで、今の消防総監のような ものだったのでしょうか。屋敷は現在の赤坂の豊川稲荷のあたりで、庭に狸がでたと聞いています(火消奉行というのは旗本の中では比較的低い役職だったうです)。江戸の火消しは武家火消しと町火消に分かれていたそうなので、ご先祖様は武家火消しに当たります。

現在 東京に住んでいる人間で 代々東京在住の人間は少ないので、私どももその少ない江戸っ子のひとりということになります。 地方の旧家ですと古い書き物なども残っているのでしょうが、 東京では転々と移動したり戦災に合ったりで 家系図などまったく残っていません。 そういうことで、残念ながらそれ以上昔のことはわかりません。

以上は夕食の席などでの父の話で聞いたもの。当家について戦前の資料などは皆無、私のルーツについては口伝でしか伝わっていません。TV で有名人のルーツを探る番組があります。私のルーツも、ああいう人達ならもっと追跡できるのでしょうか。もし依頼できるならしてみたいものです、、

そこでルーツをたどるため Web で大橋という苗字の統計を検索してみました。 私のみつけたサイトによると、大橋という苗字の頻度は147番目でした。 余り同姓の方にはお目にかからないので、 もっとマイナーかと思っていたのですが、 その下にいくつも普段見かける苗字がありますねえ。

全国分布を見ると、 愛知にダントツに多くその後が、東京、静岡、岐阜あたりです (昭和20年代、東京都の電話帳で大橋を捜しても 3件くらいしかなかったことを憶い出しました)。 密度でみると、岐阜、滋賀、栃木、新潟の順になります。 そう言えば昨年岐阜へ初めて行ったのですが、 確かに大橋さんという方が2名ほどいらっしゃいました。 そうすると、大橋のルーツは岐阜県あたりなんでしょうか。

ある会合で大橋さんという女医さんがいらっしゃいました。同姓の方に会うのは珍しく、声をかけてみました「私も大橋ですが、大橋という苗字は少ないですよね」すると「私は岐阜の出身なんです」とのこと。そこで「大橋という苗字は岐阜に多いようですが、ルーツは岐阜なんですかね」と尋ねると「ええ、そうです。元は武家だったようです」。「やはりそうですか。で、どこかの家来だったんでしょうかね」と言うと「元は野武士だったそうですよ」とのこと。話はそこで終わったのですが、さて、ご先祖様は何時どんな理由で江戸に出てきたんでしょうか。また、疑問が膨らんでしまいました。

家紋「丸に橘」を用いる井伊家は近江(現在の滋賀)を治めていましたから、やはりルーツは岐阜や滋賀辺りの可能性が高そうです。ちなみに丸で囲った紋は分家や家来の紋であることが多いとか。

○ 父方について

父、大橋 伝六郎は文字通り6番目で、 大橋重房の末っ子として産まれました。 重房も医師で、明治23年に東京慈恵会医科大学卒業の第6回生ですが、私の父が3歳の時に亡くなったそうです。 後述のように大橋眼科というのが北千住に残っているところをみると、重房も眼科だったのではないかと思われます。 祖母も終戦直後の混乱期、自宅に押し入った強盗に殺されたということで、私は父方の祖父も祖母もまったく記憶にありません。

父の想い出話では、晩酌する祖父の膝の上に座りながら、祖父が箸でつまむ食物が「自分のところにくるかなあ」と思っていると自分の頭の上を通り越し、祖父の口に入るのを覚えているとのことでした。

父の兄弟6人のうち、上3人とは腹違いだそうですが、 上3人とは付き合いがなくなったようで、私にはよくわかりません。 現在、北千住で大橋眼科を開業している叔母:鈴木志賀子が、おそらく父の腹違いの兄弟の娘さんだろうと思います。 この叔母の元新聞記者だったというご主人は古いものが大好きでランプなどを蒐集していましたが、 古い建物が壊される現場からステンドグラスやランプシェードなどをもらってきて保存しておき、 大橋眼科の改装にそれを使いました。そのため、大橋医院は北千住の商店街の中でも異彩を放つクラシックな洋館造りとなっています。 終戦直後、私の家にこの叔母がちょっとの間下宿していたことがありました。恐らく叔母は当時、医大生だったのではないかと思います。

4番目の兄弟の孝平伯父は、慈恵医大の眼科教授をしていました。 私が大学の頃現役の教授で、眼科の卒業試験の時など父に口頭試問を 受けているようでとても調子が悪かったのを憶いだします。 兄弟だけに、話し方などが父とそっくりなのです。 孝平伯父は私の卒業後脳溢血で倒れましたが、 復帰し停年退官するまで教授を続けていました。

5番目の兄弟の正雄伯父は、東京の北千住で小児科を開業していましたが、 若くして脳溢血で倒れましたが無理して外来診療を続け、2度目の発作でなくなりました。 私の従兄弟にあたる長男が岩手医大の学生だったので、恐らく まだ40代だったのだろうと思います。 その後私も同じような境遇をたどるのですが、 従兄弟のところもかなり苦労されたと思います。 しばらくしてから、その従兄弟が大橋小児科を継ぎ開業しました。

私の父は慶應義塾医学部卒ですが、兄の孝平伯父は慈恵医大卒、次兄の正雄伯父は東大医学部卒だったのは面白いと思います。

○ 母方について

母は、籾木穂積の長女として生まれました。 私の母方祖父にあたる穂積は東京慈恵会医科大学を大正7年に卒業、東京の蒲田で眼科医院を 開業しており蒲田医師会会長を務め、勲五等を受けました。 イギリス紳士のようなスマートな体型と顔立ちの立派な人で、 地区医師会などでも大勢の先生方から尊敬され慕われたようです。

母が小さい頃は陸軍砲兵隊の軍医として千葉県の習志野に居たそうで、かなり厳しいところもあったようですが、私の知るようになった頃の祖父はとても優しい人でした。それでも元軍人らしく、母がちょっとでも猫背になると「美穂子さん、姿勢!」と注意していました。

片方の人差指の先端が欠けていました。小さい頃、スタンドに立てた自転車で回っている後輪に指を突っ込んで失ったのだそうですが、短くなった示指を器用に使い患者さんの眼瞼をひっくり返したりしていました。

本が好きで小学校時代、遊びに行くと「本屋へ行こう」と言って一緒に散歩に出、 池上線蓮沼駅の隣の本屋で絵本を買ってくれたものです。 医師会長を辞め車があまり必要なくなってからは、 ガレージを書庫に改造し本で一杯にしていました。 また小さいものが好きで、ミノックスなどのミニ・カメラや親指大の豆本などを集めていました。

また祖父は整理好きでした。 正月など重箱が少し空いてくると箸で別の重箱に少しずつ移し変えたり、 部屋に落ちている細かいゴミをいちいちかがんで拾っては屑篭へ入れたりで、 祖母に「おじいさんはちっとも落ち着かないんだから」と言われていました。

祖父は当時の慈恵医大の樋口一成学長と小学校が同窓で、私が学位取得する 1975 年、私を連れて学長室へ挨拶に行ってくれました。 その直後8月に樋口学長は喉頭がんで逝去。祖父もその後体調を崩し入院検査したところ肝臓腫瘍と判明、その年の11月に80歳でなくなりました。 深夜3時頃、祖父逝去の電話があり、長女である母を私の車に乗せ蒲田の祖父宅へ急ぎました。その夜の第二京浜国道はワイパーも効かないほどの大雨だったことを覚えています。

曽祖父「籾木郷太郎(1867..1916)」は、1887(明治20)年 鹿児島医学校卒の医師で、東諸県郡医会長、郡医、校医、日本赤十字社準備医員嘱託などを歴任。衆議院議員(宮崎県選)となり、立憲政友会に属した。当選1回。勲四等。曽祖父が帰ってくると、往診用に飼っている馬が足音を聞きつけ「ヒヒーン」と鳴いたそうです。奇遇にも、私の今の家内の曽祖父も九州で医者と代議士をしていたそうですから、両方の曽祖父同士は顔見知りだったはず。おそらくあの世で、ひ孫同士の結婚を喜びあっていることでしょう。

祖父・祖母は宮崎県出身。祖母は武家の娘という感じでしっかり腹の座った人でした。ふっくらした体型でとても明るい人、何か可笑しいことがあると声を殺し苦しそうに笑っていました。祖父の家は神道で、何年かに一度「お先祖まつり」をやるのですが、ある時、神主さんのあげる祝詞の声に笑いそうになるのを死にそうな顔で我慢していたのが印象に残っています。親戚の人の物真似なども上手でしたっけ。

母には3人の弟がおり、 一番上の秀穂叔父は眼科医で祖父のあとを継ぎ開業しました。 二番目の茂穂叔父は外科医で品川区の大井で外科医院を開業、 三番目の和穂叔父は産婦人科医で蒲田で開業。 このように私の親類縁者のほとんどは医者ばかりです。 洋画の俳優のようにハンサムで格好良い和穂叔父が真夏に真っ白い麻のスーツにサングラスをかけ蒲田の商店街を歩いていると、 すれ違うヤクザがどこかの兄貴分かと思いお辞儀をして通ったそうです。東映の俳優やマフィアを彷彿とさせるような、、

祖父や叔父は皆、日本人離れした顔立ちです。 どうみても西洋人の血が混じっていると思われますが、 以前祖母に聞いたところではそんなことはないと言っていました。 しかし、籾木家は元々九州ですので、 おそらくポルトガルだとかオランダあたりの血が混じっているに違いない と私は思っています。 叔父達が結婚した頃の写真を見ると、 まさにヨーロッパ映画の二枚目男優さんたちの世界です。それぞれの連れ合い、すなわち私の叔母三人ともこれまた女優さんのような美しい人ばかり、 若いころの叔母三人が銀座を歩いているスナップ写真が英字新聞に載ったことがあります。

1940年代末頃だったでしょうか「一ダースなら安くなる」という米国の家族を描いた映画がありました。ここに出てくるスマートでダンディな父親が祖父にそっくりだったことを想い出し、それから50年以上も経ってビデオになっていないか探すとありました。さっそく購入して見てみると幼い頃の記憶通り、そこに出てくる父親の容貌は私の祖父そっくりでした。