1991.06 ホーム・コンピューテイング作戦

ドクター、ワークステーションと暮らす (1)

1991-06 大橋克洋

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○ コンピュータとネットワークにどっぷり

私の本業は、しがない街の産婦人科医。10年前の昭和56年、親から相続 した土地をマンション会社に売り、それに見合う仕事場と自宅のスペースを等 価交換方式でもらったが、建築にあたり1Fから13Fまでコンピュータ用配管 を通してもらった。

当時はPET, Tandy, Apple IIの時代で、ようやく国産のNEC PC-8000が出始 めた頃。BASIC ではもの足りなくなって Apple II で UCSD Pascal を使って いた。建築を請け負った大成建設もどのような配管をしてよいかわからず、大 手メインフレームメーカに相談したらしい。そこで「そのようなお客さんなら 是非紹介して欲しい」といわれたそうで、このような注文がパソコンユーザか らでたとは夢にも思わなかったようである。

当時こちらとしても、まだUNIXなどというOSの存在すら知らず現在のイーサ ネットなど具体的に予測した訳ではないが、とにかくコンピュータというもの は我々個人レベルでもネットワーク接続して使えるようになるに違いない。そ してネットワーク接続されてこそ始めてコンピュータのメリットが生きるとい う確信があった。

昭和59年、UNIXに手を染めると同時に、この配管に光ケーブル(といって も、プラスチックファイバーの両端に安価な光モデムをつけたRSー232C互 換のもの)を通して、1F診察室のUX-300(日本で先駆けの漢字が使えるUNIX マシーン。とっくの昔に老衰でおなくなりになって、今ではデイスプレイとプ リンターだけが元気に生きている)と13F自宅の端末(PCー98)とを接 続した。13Fの自宅に居ながらにして1Fのコンピュータを使えることに、い たく感激したこと。

このころ私の母校の慈恵医大で講演をお願いしたアスキーの西和彦氏(アスキー 現社長、当時マイクロソフト社副社長を兼任)が、個人で自宅内にUNIXネット ワークを張っているところを是非見たいと言うことで来宅された。西さんは私 の書斎でしばらく歓談の後、「わー、今日は眠れなくなっちゃうなー」と言っ て帰られた。

○ ホーム・コンピューテイング作戦

このようなネットワークとは言い難い初期の段階を経て、少しづつウチのコ ンピュータたちは増殖していった。そして現状はどうなっているかというと、 診察室にファイルサーバ兼用のSUN-3/50があり、受付のカウンターにある端末 とシリアルラインで繋がっている。いずれここにはツイスト・ペアのマルチポー トトランシーバを繋いで、事務員や看護婦用に手持ちのJ-3100、そして更には X端末とかMacだとかをイーサネット接続したいと考えている。

1F診察室から13Fの自宅まではというと、5年前SUN-3導入とともに光ケーブ ルからイーサネットのイエローケーブルに代わった。自宅では、イエローケー ブルにSPARCstation1+, EPSONのPC-98 互換機が直接ぶらさがっているが、ケー ブルの先はリピータを介してThin Etherに変わり、その先にはNeXTcube、Mac IIci などが芋づる式にぶらさがっている。

ジャックと豆の木ではないが(古いですねえ) Thin Ether は更に家の床を 露出ではいまわり、最終端は自宅の端にある高校生の次男の机の上のMacPlus (初代のMacにメモリーなど増設したもの)で終っている。

次男は勉強が嫌いでどうしようもない。試験前も勉強をしないので20点や 30点の成績をとってくる。「おい、こんな点数ゴミだぞ。これじゃあヤバイ ぞ」などと言っても平気のへいざ。「ええい、それなら徹底的に遊ばせてしま え」ということで、私のお古のMacを与え自分で自宅内にイーサケーブルを引 き回してネットワークに接続してしまった。ハマってしまうと抜けられない最 もあぶないコンピュータを与えてしまったのだが、果たして結果はどう出るで あろうか。

やる気になれば自分の勉強机の上から色々なWSの中に入ったり、SUNに接続 されたモデムを介してJUNETなど外部ネットワークに出て行くこともできる。 ま、言ってみれば大変贅沢かつ危険な環境だが、「ほれ!」とハードウエアを 与えただけで放ってある。

コンピュータを与えられてまだ2カ月ほどしか経たないのに、本を頼りに HyperCard や ResEdit を使って何か作ってみたり、母親のためにFileMaker II で食糧在庫管理のアプリを作ったりしているようである。まずまず作戦は 順調な滑り出しと言えようか。

○ワークステーションは空気のように

ワークステーションは今や私にとって女房や自分の身体、あるいは空気や水の ようなものとなっている。いつでもそばに存在するのが当たり前で普段は余り 意識することなく接しているが、ふと、それが居なくなったり(WSの場合、多 くは動かくなったり)すると大変不便で淋しい思いをする。

作戦の最終段階は、家中のものにとってワークステーションを空気のような ものにすることである。まず家中をのたうち回っているイーサケーブルに、 Mac-LCクラスのものを次々とぶら下げて行くことを計画している。お金がかか るので数年計画だが。つまり、家の中の誰もが何処からでも簡単に色々な情報 にアクセスしたり、ため込んだりできるようにする。家族にとってコンピュー タは特別意識するものではなく、普通に使える状態にしようという作戦である。

私は医師会・産婦人科関係などの役員、その他 juice(パーソナルUNIXネッ トワーク)、NeXus (日本NeXTユーザ会)など、コンピュータ関係グループへ の参加など多忙で、夕方から家を留守にすることが多い。家内は食事の支度の 都合などあって、私のスケジュールをしょっちゅう尋ねるのだが予定が次々と 入るもので変更が多い。いつも「前にいったのと違うじゃないの」とおこられ る。「予定は未定だ」などという庇理屈をこねても通らない。こういうのもWS に入っているスケジュールリストを勝手にアクセスできるようにしておけば、 お互い楽で良い。

人間は自動車や船や飛行機を発明して地上、水中、空中を速く移動できるに なり、電話やTVを発明して遠方のものを聞いたり見たりできるようになった。 これに対しコンピュータとネットワークは神経繊維をパワーアップし延長する ものだろう。人間の脳より馬鹿正直に、疲れを知らずに考えることができ、居 ながらにして遠方のものを触知したり、勝手に判断してコントロールすること ができる。

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