余生

○ いろいろな役職を離れて

2011年に東京都医師会理事を辞し、2014年まで東京産婦人科医会監事をやっていましたが、 こちらは月1回の常務理事会に出席する程度でたいしたことはありません。 そのうち時々、何が原因ということもなくふわーっと漠然とした不安感を感ずるようになりました。

都医の通勤がなくなり運動不足もあるかなと散歩を始めたのですが、それでも消えません。 翌年も寒い季節になると同じような症状が発生。はたと気がつきました「もしかして軽いウツ症状?」。 緊張感ある多忙な役職から離れ虚脱状態からウツ傾向が現れるんだなと。動物園のオリの中の動物が同じ所をグルグル回っていますが、 あれは駆けまわる野山を奪われウツ症状なのかも知れません。「生き物には適度のストレスが必要」ということなのだと思います。

そこで「人間は戦闘的に生きなくてはいけない」と考え、ライフワークである「電子カルテ開発」「歩術の研究(自称)」「独学の中国武術」 をもとに、両輪の車である「身体」と「精神」を常に使うよう心がけることにしました。

大橋産科婦人科を閉院

2017年6月一杯をもって大橋医院を閉院しました。自分で定年を75歳と決めリタイアということですが、実際にはその2年ほど前から医院売却先を探していました。最近この地域ではどんどん産婦人科が少なくなってきていることでもあり、できれば産婦人科に入ってもらえると地域にとっても有り難いと思っていました。

繁盛する武蔵小山商店街の中とあって、場所はとても良いのですが数年待っても産婦人科はもちろん他の医業の方もなかなかみつかりません。最終的に不動産会社に売却、そこは24時間営業のフィットネスに賃貸することになりました。

買い手が決まり閉院1ヶ月前、職員に伝えました。行き先がないようなら私の方から紹介してもよいむね伝えましたが、そのようなこともなく最終日は皆で記念写真をとり名残を惜しんで別れました。以前の分娩をとりやめた時もそうでしたが、何かうら寂しい思いでした。

建物を空にして引き渡さねばならないということで、ネットで探した結果、医療器械とそれ以外のものも一切まとめて引き取ってくれる業者をみつけました。一番大変だったのはカルテ。診療は電子カルテですが、医事紛争対応のため紙カルテでも保存していたのです。

最初は安易にシュレッダー処理を考えていましたが、開業以来50年近いカルテの手作業での処理には何ヶ月もかかりそうです。で、探した結果、クロネコヤマトがカルテを詰めたダンボール箱を引取り、内容を開けないまま融解処理するサービスをみつけました。それからが大変、なるべくカサを減らすためカルテの厚紙表紙を一枚一枚はがす作業に3週間以上かかったでしょうか。

閉院した翌日からは毎日が日曜状態、嬉しい反面さてこれからどう生きていこうかと、、

一番気が楽になったことは、最近増えつつあった「クレーマーの患者さんの恐怖」が去ったこと。これは後日いろいろなお医者さんから異口同音に聴いたことです。

閉院の日:秋山 池田 斎藤 私 家内 鈴木の各職員

○ 電子カルテ開発

これは40代から私のライフワークとして続けているものです。数年前にオープンソースという形で、 電子カルテの設計図を公開し誰でも無料で使えるようにしているお陰で、熱心なユーザさんから色々なリクエストがあります。 商売でやっているソフト屋さんの多くは、頻繁なリクエストを嫌がるものですが、ひとつは「怠け者の自分の尻をたたくため」 もうひとつは「電子カルテをさらに使いやすくしたいため」、出来る出来ないは考えず何でもどんどん投げてくるようお願いしています。

25年以上改良を続けていると次第に新しいアイデアが枯渇してきますが、ユーザさんからの思いがけぬリクエストは新しい発想を産むためにも 大変有効と思っています。折角オープンソースにしているのだから、一緒に電子カルテの改良をしてくれる仲間が居ると嬉しいのですが、 昔の NeXT ユーザ会の頃のように意欲的で生産性に富んだ能力をもつ人間は少なくなってしまったようです。あの頃の連中はどこに潜んでしまったのでしょう。

○ 住宅設計

住宅の設計図を引くのは、高校時代からの大好きな趣味。麻布高校の製図の授業で出された課題に住宅設計があり、 ハマってしまいました。好きでたまらず、大学受験の前、父に「建築に行きたい」と言ったところ「まあ、医者になって、 趣味でやれ」と云われたことは前にも書きました。還暦を過ぎてからも「大好きな建築設計やデザイン関係の仕事についていたなら、 きっと幸せだったろうなあ」「その世界でも絶対に名を挙げていたはず」と思いました。

大学に入ってもしばらくは平面図やパースなどを書いていたのですが、 そのうち馬術部にどっぷりハマり、平面図を書くことはなくなりました。 開業してから時々思い出したように平面図を書くことはあったのですが、医師会の役職を離れ電子カルテ開発も一段落した時など、 手持ち無沙汰で住宅の平面図を書くことが多くなりました。

手で描くよりコンピュータ上で描きたくなったのですが、 住宅平面図を描けるソフトは CAD などプロが使うものでやたら高価なものばかり。「ええーい、欲しいものは作ってしまえ」ということで、 Web アプリケーションとして自作しました。この類のアプリを Web アプリとして実現する必然性は余りないのですが、 電子カルテの開発環境が Web アプリにすっかり移っていたものですから。

○ 歩術の研究

還暦を過ぎた頃、それまでの私の人生でもっともメタボな身体となっていました。朝起きて靴下を履くにもベッドの端に腰掛けないと履けない状態。 丁度この頃、東京都医師会理事を仰せつかりました。「都医の理事は東京都医師会という全国最大の会員数をかかえる要職。打たれ強くならなければならない。 それにはもっと身体を絞らなければ」と考え、筋トレダイエットを始めました。 「精神と肉体は両輪の車」ということで、頭のトレーニングには「電子カルテ開発」、 身体のトレーニングとして最初は腕立て伏せやダンベルなどによる筋肉増強を始めました。やってみると、その歳になっても、 ちゃんと筋肉は着いてくるもの。鉄棒をやっていて肩の筋肉モリモリ逆三角形だった高校時代の身体をめざしました。

そのうち「減量には最も大きい筋肉である大腿の筋肉を使うのが効率良い、それには歩くこと」と考えるようになり、 歩く術を探っているうち中国武術に行き当たり、身体トレーニングにはこれが非常に合理的と思うようになりました。 中国武術を深く理解するうち「本当に大きな威力を発揮するには、筋肉ムキムキは反応を遅くし威力を低下させるだけ」 を学び、いわゆる筋トレはしなくなりました。

以前から、虎ノ門から平塚に至る中原街道を徒歩で制覇したいと考えており72歳で挑戦、途中リタイアとなっていました。これは事前トレーニングなしの無謀な挑戦だったことを反省、それから2年後74歳の時、少しずつ歩行距離を延ばし、自宅から多摩川沿いに福生まで45キロ達成で自信を得て再挑戦。無事、自宅から平塚まで50キロ余を制覇しました。これが人生における最長不到距離になると思います。

この頃は絶好調、軽量スポーツカーのようにエンジンは軽快に吹き上がり、中原街道の長い上り坂もなんのその、地平線のどこまでも歩ける気がしていました。

76歳からは仕事をやめたことやコロナ禍などの影響もあって、ガクンと歩力が落ちました。なので、74歳で中原街道制覇に挑戦できたのは、とても良かったと思っています。

○ 70代後半で体力低下を実感

78歳ころから足腰が弱ってきていることを特に実感するようになりました。その前年からの COVID-19:いわゆるコロナ感染が世界的に蔓延するようになり、外出の機会が減少したこともあると思われます。

それでも、毎日の早朝散歩で1日4キロから10キロくらいは欠かさず歩いているのですが、それ以外は数ヶ月に1回の慈恵医大での定期検診と、週に1回程度近所のスーパーへ行く程度。普段はほとんど自室に座ったまま TV 録画を観たりすることが多いのがいけないのだろうと思いつつ、なかなか身体を動かす気になれません。

2年ほど続けた中国武術:八卦掌の教室もコロナ蔓延を機会に通うこともなくなってしまいました。

体重も油断すると67キロに達することも、これは自分としてはかなりの過剰体重。腹囲が今までになく大きくなり、明らかに内臓脂肪の増加を思わせます。という具合、とてもマズイ状況になりました。

父やその兄弟がすべて脳溢血などで早くして倒れたり亡くなったりしていますので、思ってもみなかった80歳ともなると、大学や高校の同級生その他、身の回りで訃報が相次ぐようになりました。考えてみれば日本人男性の平均寿命は81歳そこそこですから、そうなりますよね。さあて、自分はこの先どんな感じでゆくのかなあと、、