戦中・戦後

○ 戦時中

昭和19年頃に父は応召で軍医として南支那(現在の中国南部)へ派遣され、 父が出征してしまった昭和20年4月1日に弟の正洋が生まれました。 米軍の B29爆撃機による空襲が始まり、 後日「克洋は空襲警報のサイレンがなっても防空頭巾さえかぶれば安心した」 と祖母に言われたものです。3歳以前のことで、自分の記憶としては残っていません。

祖父は太平洋戦争前に 千葉県習志野で砲兵隊付き軍医をやっていたことがあり、空襲が始まってからは、 近くに落ちてきた焼夷弾を鞄で叩いて消したこともあったとか。

○ 疎開先

やがて住んでいた荏原の診療所は空襲による延焼を防ぐため、 強制取り壊しの地区に入ってしまいました。 実家の籾木の両親が面倒を見てくれたようで、 戦災を免れるためわれわれ一家は祖父一家とともに、 神奈川県の鵠沼へ疎開しました。 しかしここも米軍の艦砲射撃がはじまるという噂で、 埼玉県行田市の下忍(しもおし)というところの野本さんという農家へ 疎開になりました。

祖父の患者さんの紹介でお世話になったのではないかと思いますが、 母達は肩身の狭い思いをしながら大分苦労したようです。 私の記憶が始まるのはこの頃からで、3歳か4歳の頃でしょう。 もっと早い時期からの記憶を持つ人もあるようですが、 私には3歳以前の記憶はまったく残っていません。

夜になると天井裏でネズミが大運動会を開き大騒ぎで駆け回ったり、 ある日タンスの引き出しを開けてみると、 奥の方にネズミが子供を産んでいて まだ目も開かず毛も生えていないピンクの肌をした親指ほどの子ネズミが沢山 うごめいていたのを覚えています。夜中に「ちょん、ちょん、ちょん」というような音を立てるネズミがいて、祖母は「克洋は包丁ネズミと呼んでいた」という話でした。

事故の原因は覚えていませんが近所で大怪我をした男性があり、怪我人を戸板にのせ皆で縁側から座敷に担ぎ込んできたことがあります。祖父が医師だったからでしょう。祖父は眼科医でしたが砲兵隊軍医だった経験もあり、あわてることなく対応していたようです。

私の遊び仲間に、 近くの農家の子でトッコちゃんという同年代の女の子がいました。 「トッコちゃんが竹の皮に包んだ梅干(竹の皮で梅干を三角に包み、 角のところから吸うと酸っぱい汁がでてきます。当時の子供のオヤツ)を持っていると、よく克洋は『それくれねば、遊んでやらね』と埼玉弁で 交渉していた」と、これも祖母の回想話です。弟はそんな時、兄を応援するため「ピッピッ」と言っていたとか、彼なりに意味のある言葉だったんでしょう。

「克洋は薪で家を造るのが好きだった。薪を積んでは崩れてしまい、 カンシャクを起こして泣いていたものだ」という話も聞きました。 私の建築好きというか、物作りが好きなのは、3歳の頃から芽生えていたようです。

○ 弟

私は二人兄弟で、3つ下の正洋という弟がます。父が出征している間に生まれました。 先に書いたように疎開先で乳児時代を過ごしたのですが、栄養不足で母の母乳が出ず山羊の乳をもらって育ったと聞いています。 その時の栄養失調が元で成人してから片方の視力が出ず、彼は色々と苦労しました。 弟と喧嘩をしたことは成人してからはもちろん、その前もほとんどありません。

戦後大分たってから祖母が「疎開先で寝かされていた正洋ちゃんの青っ洟(ハナ)にハエが停まって、飛び立てずにジタバタしていた」と自分の思い出話に息のできないほど笑い転げていました。戦中戦後は栄養や衛生状態が悪く、慢性鼻炎で青っ洟を垂らしている子が多かったのです。私が小学校低学年の頃は、よく上着の裾を洟でピカピカにしている子がいたものです。

彼は慈恵医大では私と違って特待生、卒業後は脳外科教室に入りましたが、細かい手術で立体視が困難とのことで家族を連れて米国へ留学し、当時は日本でも珍しかったリハビリ専門医の資格をもって帰国しました。その後、神奈川県厚木七沢のリハビリテーション・センター長をしていましたが次、第に視力低下は顕著になり定年後は極めて視力低下が進み、連れ合いの付添で白杖を持って散歩に出る状態となりました。彼の長男が父の意志を継いで慈恵医大で脳外科医となっています。

○ 終戦

昭和20年になり終戦となりました。ある日、疎開先の農家の縁先に、山のように大きなリュックを背負い真っ黒く日焼けした兵隊服の男の人が入ってきました。それが復員してきた父だったのです。弟は知らない男性に泣いてしまいましたが、母の喜びはいかに大きかったことでしょう。 父は香港で捕虜生活を送った後帰ってきたことを考えると、われわれは終戦後少々埼玉にいたのだと思います。 やがて疎開先を引き払い、 東京へ引っ越す時のことは少し覚えています。 トラックへタンスその他の家財道具を山のように積み込み、家族はその隙間に座って東京へ帰ってきました。

父が復員してきても、すぐには一家そろって生活できませんでした。 今から想像するに裸一貫で帰ってきた父としては、 東京で生活の基盤作りのため汗を流していたのだと思います。 当時保健所へ出した開設届によると昭和22年3月3日に戦後の大橋医院を開設したことになっています。 私達家族はその頃まだ祖父の家へ厄介になっていましたので、基盤が整うまで父ひとりで頑張っていたのだと思います。

○ ひとまず母の実家へ居候

母とわれわれ兄弟は、 ひとまず母の実家である蒲田の籾木眼科へ居候となりました。 父より祖父の方が先に家を建て直したのです。

終戦直後でまだ食料事情が悪かったようで、 これも祖母から後で聞いた話です。 ある時飼い猫がどこからか干物をくわえて帰ってきたことがあり、 それを取り上げて人間様が食べてしまったという話を聞きました。「お魚くわえたドラ猫が、、」というサザエさんの主題歌そのままの情景ですね。 祖母の話はとにかく面白いのです。話しているうちに祖母は自分で可笑しくなって、 声も出ず身体を折り曲げて苦しそうに笑うこともよくありました。

昭和24年、私は蒲田の道塚小学校へ新入学となります。 祖父の家から小学校まで行く途中、 目蒲線の踏み切りを渡って行くのが祖父の家からよく見えます。 当時はまだ家もちらほらしか建っておらず見通しが良かったのです。 七夕の頃「黄色いレインコートを来た克洋が笹の枝に短冊をつけて 引きずるように踏み切りを渡って行くのがヒヨコのようだった」 と祖母が話してくれました。

名前は忘れましたが小学校の友達が遊びにきて、 炬燵の傍でノートに色々なロケットの絵を描いていたのを覚えています。 トウモロコシ型ロケットとか、色々ありました。 このようなものに興味があったんですね。

ある夜、米国の兵隊が籾木家に泊まったことがあります。 夜遅く眼科医院の門灯のともった玄関を見て、ホテルと思いドアを叩いたそうです。 外人が泊まっているのを 私が知ったのは翌朝。 朝食に祖母がオムレツをだしたのを覚えています。 4歳の弟が米兵に絵本を見せながら「ホワイトベア」など、盛んに説明していました。 後年米国へ留学することになる弟の最初の英会話となりました。