産婦人科医会

○ 日本母性保護医協会(日本産婦人科医会)幹事

1983年春、日本母性保護医協会の広報委員として引っ張られました(協会は後に「日本産婦人科医会」へ改称されました)。 柳田先生の「産婦人科パソコン研究会」でご一緒する角田先生が広報委員長をしており、その縁で引っ張られたものです。 広報委員会には日母の松浦副会長も出席されていました。松浦先生は医会広報の発展に非常に尽力された方ですが、 父と同じ慶応の産婦人科出身。父が元気な頃、父の年賀状の宛名書きをしていたのでお名前はよく存じ上げていました。

そもそもは1978年、西武デパートで初めてのパソコン PET2001 を購入したことから始まった縁が 後々大きく広がって行き、東京都医師会理事になって唐沢先生を日本医師会長にすべく選挙で全国を走り回ったり、 日本医師会の医療情報委員会の委員長などへと繋がって行きます。 人生の大きな転機のきっかけは、その場では判らないものです。

日母に清川という名前の幹事がいることを知りました。大学馬術部の頃、東京医大に清川という珍しい苗字の選手がいたのをよく覚えています。 はたして清川先生はその東京医大馬術部でした。その縁で、その後も清川先生とは仲良くさせて頂きました。 このように社会に出てから、他大学の馬術部の先生にひょんなところでお会いすることは何度かありました。 慶応の内科の猿田教授なども、学生時代の試合で馬に乗られた姿をよく覚えています。

広報委員になって2年後、今度は日母の幹事に引っ張られました。 幹事は委員会・幹事会・常務理事会と多くの会議で週に何日も仕事のある激務と聞かされており、 南條幹事長から「幹事になってもらえないか」と電話を受けた時は丁重にお断りしました。 「ああ、そう」と素直に電話は切れたのですが、数日後、医局の先輩の有廣幹事から電話がありました。体育会系の私としては先輩の言うことは絶対。 うまく絡め取られてしまったのがこの世界に足を踏み入れた始まり「実にうまい人の捕まえ方だな」と思いました。

30年近くにわたる公務に身を投じて自院の診療時間をかなり割くことになり、まったく蓄財もできませんでした。 しかし、日本産婦人科医会で一緒に幹事を務めた大学勤務の先生方の多くは教授になり、 その後の東京都医師会理事の経験などを含め、全国に沢山の人脈ができたのは大きな財産となりました。

○ 日母の絶妙なシステム

日母には、会長・副会長・監事・常務理事の他に幹事という制度があります。 幹事は医局の若手や私のように開業医の若手が推薦や一本釣りで任命され、常務理事の多くは幹事経験者です。 常務理事会に先立ち幹事会が開かれ、そこであらかじめ常務理事会の議題について精査し議論します。 常務理事会で結論がでにくいような場合、会長から幹事会ではどんな議論があったか尋ねられることもあります。 事業計画なども、まず担当幹事が立案し担当常務理事が決済。色々な事業の推進に際しても力仕事の殆どを幹事と事務職で行います。 軍隊で云えば常務理事が士官、幹事が下士官に相当。

これは非常に優れたシステムで、若手バリバリの人間が仕事内容を覚えながら事業を行い、実務の判ったところで常務理事に進む。 また力仕事の多くを幹事がやるので事務職の数はずっと少なくて済むのも特徴。 これは後日、東京都医師会や日本医師会のシステムを知ることによりわかりました。 医師会では逆に理事の数が少なく、事務職が滅法多い。その代わり医師会の事務職は優れた官僚のような役割を担っています。

この優れた幹事システムは森山会長が作られたときいています。 医局出身の幹事の多くはその後教授になることが多いので、後年の私にとっても 各大学の産婦人科教授が一緒に日母で仕事をしていた仲間というメリットが大きいのでした。

○ 森山豊会長

私が幹事になった頃の会長は森山豊先生でした。一見大人しそうなお年寄りに見えるのですが、その凄さを知ったエピソードがあります。 何の問題で紛糾したか忘れましたが、常務理事会で議論してもなかなか結論のでない問題がありました。 森山会長は最後に出席役員全員に意見を述べさせたのです。常務理事だけでなく、われわれ幹事も意見を述べさせられました。 日母の常務理事には海千山千、弁のたつ凄い先生が何人もいます。

そうして意見が一巡したところで、森山会長がぽそっと一言うと、 紛糾していた問題は何と一気に収拾されてしまったのです。この時ほど「凄いなあ」と思ったことはありません。 それだけ会長が尊敬されていたということもあると思います。今考えれば「ガス抜き」の効果もあったのでしょう。

○ 広報の仕事

日母幹事を丁度10年やりましたが主担当はずっと広報でした。日母では会員向けに毎月「日母医報」というニューズ・レターを発行しており、 この作成が主な仕事。私が一会員だった頃、日母との接点はこの広報紙だけでしたのでこれは重要な仕事。 ここで学ぶことは沢山ありました。松浦副会長の方針として「冗長な記事は読まずに捨てられる」「記事はなるべく簡潔に」 「読んだだけで内容がわかるようなタイトルをつけよ」など。これは後年、電子メールの普及に先立つ マニュアルの「重要なメールほど、なるべく短く」「読んでもらいたくないメールは、いくら長くても構わない」などと共通するものでした。

この方針に従い記事をなるべくコンパクトに、判りやすく書くことに意を尽くしました。 原稿圧縮にあたり最初は「てにおは」など細かく削除していたのですが、 松山常務理事のやり方を見ているとチマチマ削らず ある部分からある部分までバッサリ削除しています、なーるほど。 自分への依頼原稿なども最初は文字数関係なく思いつくままに書き、 最後にそれを可能な限り圧縮することにより良い文章になることを学びました。 広報担当になると、常務理事会・幹事会の他に、広報委員会・月2回の編集会議、その他にも副担当の委員会などで、 多い時は週に5日ほど日母のある市ヶ谷へ出掛けて行くようになりました。

○ 激務の中に和気藹々とした雰囲気

日母は3万人の全国産婦人科医をまとめる組織とあって仕事は多く、生半可なことは許されません。 前原・薄井・松山・真田などなど弁も腕も立つ常務理事が大勢おり、仕事もバリバリしていました。 それでいて常務理事会など公式の場でも、ジョークを飛ばしながら和気あいあいとした雰囲気。 ある常務理事会で、会長席から大分離れた私の隣の席で松山常務理事が会長から見えない側の耳にイヤホンを入れ野球を聴いていました。 会の途中で松山常務理事が退席すると、森山会長がぼそっと「松山君、野球が気になって帰っちゃった」と云われたのには感心。 見ていないようで森山会長ちゃんと見ている。

納涼会と忘年会は必ずご夫人同伴ということになっていました。ここでご夫人方も役員やその連れ合いの顔や名前を覚え、 ご夫人同士で仲良くなったりします。日母は人使いがとても荒いので何日も家で晩飯を食べることがなかったりし「日母ウイドー」なる名称があります。 しかし「今日は◯◯常務理事と会合」と云えば、ご夫人方も相手の顔が目に浮かび文句も出なくなる。 「将を得んとすれば馬を射よ」夫妻同伴で会を開くのは森山会長の発案と聞きます。

ある日、会議をしていると「〇〇常務理事に奥様から電話です」。ところがその日、〇〇常務理事はこちらに出勤していません。皆で「〇〇常務理事、どこの日母に行ってるんだろうね」の笑い話でした。

○ 坂元正一会長

1989年始め、尊敬する森山豊会長が肺がんで逝去されました。これは丁度、昭和天皇が崩御された時とほぼ同時で、元号が昭和から平成へ変わる時でもありました。 日母には委員を含め6年もお世話になったので、私もこれを機会に辞めさせてもらおうと思っていたのですが、 今度の会長が坂元正一先生と聞いて一度その下で働いてみたくなりました。 坂元先生は元東大産婦人科教授として有名でしたが、海軍兵学校卒業と聴いていましたので 海軍ファンの私としては一度海兵の下で働いてみたいと思ったのです。

しかしこの期待はちょっと外れました。確かに会長は頭脳明晰ではあるのですが、海兵の良くないところが目についたのです。 例えば、森山会長はわれわれ幹事も理事と公平に扱ってくれましたが、坂元会長は理事と幹事とを座る席からして厳然と分けました。 海軍における「士官と下士官」の区分。坂元先生もかつて日母の幹事経験者と聞いていたのですが、、 時を経るうち、いろいろな面で一見おとなしそうな老人に見える森山会長の方が、大局を見る目と器は遥かに大きかったと感ずるようになりました。

私の上司にあたる広報担当常務理事の厚木先生は、言いたいことを歯に衣きせず云うユニークな先生で、他の役員から煙たがれるところもありましたが、 私とは非常にウマが合い可愛がって頂きました。同じ東大医局出身だからでしょうか坂元先生を敬っていました。

坂元会長の演説がいつも長いのに私はちょっと閉口でした。ある時トイレで会長と並んで小用を足しながら、 広報担当幹事の立場から「ご挨拶の原稿をもうちょっと短めにお願いしたいのですが」と進言したことがあります。 厚木常務理事にそのことを云うと、大真面目な顔で「坂元会長にそんなこと言っちゃ駄目だよ。 あの人は目下からそのようなことを云われるのが嫌いなんだから」と云われました。

おそらくその辺りが原因と思いますが、役員改選を控えたある日「会長が呼んでいる」というので会長室へ行くと 「そろそろ幹事を勇退して欲しい。年齢もあるし」と云われました。私が53歳、会長は80歳前後、内心「会長こそ歳では」と思ったものの、そろそろ退き際とも考え「わかりました」と引き下がりました。 戻ってくると岡本幹事が「俺も云われたよ」ということで仲良く一緒に日母を除隊。 その後も20年ほど日母にいた同期生もおり「年齢」は明らかに理由ではなかったと思います。彼は幹事から常務理事となりました。

地元医師会に陸軍士官学校あがりの先生がおり、歯に衣着せぬ女医さんから「先生が陸士だったりするから 日本は戦争に負けたのよ」とよく云われていました、妙に納得。それはさておき、日母での12年間は 私にとってとても生きがいある楽しい時間でした。

○ 東京母性保護医協会 常務理事

日母を辞める直前だったと思いますが、東京母性保護医協会(後の東京産婦人科医会)の会長選挙がありました。 日母で私の上司だった厚木先生が東京産婦人科医会の会長候補として立候補しました。 日母常務理事と兼任ということで、 東母会員として選挙前の総会に出席し厚木候補へ「日母常務理事に在職のまま東母会長を務められるおつもりですか」と質問しました。 どちらも重要な責任ある立場であり、兼任すべきでないと考えたからです。

日母では極めて親密な関係にある厚木先生へ公の場であえて苦言を提したわけですが、 懇親会で厚木先生に「済みませんでした」と謝ると、厚木先生は「良いんだよ」とにこやかな笑顔を返してくれました。 私としては敬愛する厚木先生に「それはマズいですよ」と裾を引っ張ったつもりですが、厚木先生はそれもお判りだったと思いますし、 頑固一徹な先生にはそれなりのお考えもあったのだろうと思います。

おそらく私が総会で質問したのが原因と思いますが、その次の改選に際し思いがけず選挙対策本部へお呼びがかかりました。 日母でご一緒した大村先生が厚木会長に対抗し東母会長として立候補することになったのです。 選挙の結果、大村会長が誕生し、私も常務理事の一人として再び産婦人科医会の仕事をすることになりました。

「日母では下士官(幹事)だったが、東母では士官(常務理事)。前より楽になる」と思ったのは甘かった。 幹事制度のない東母では、士官は下士官の仕事も兼任しなければならない。 実務をやらねばならない上に責任もあるということで、前より大変になりました。

東母では、私の得意分野である広報担当常務理事として頂きました。ニューズレター「東母医報」に総会の記事を書いたところ、 議長から自宅へ怒りの電話がかかってきました「何であらかじめ議長に原稿を見せないのか」。 日母医報でもよく広報担当幹事の責任記事で総会記事を書いてきましたが、何の文句を云われたこともありませんでしたから、 これには驚きました。記事内容について具体的な問題指摘はありません、事前に議長に見せなかったのをお怒りのようです。 議長曰く「総会の責任者は議長、あらかじめ議長に記事原稿を見せるべき」と理屈は通っているものの、 全国組織で海千山千の常務理事の目も光っている日母でもそのようなことは云われたことがなく、 これには目をシロクロしました「所変われば品換わる」。

東母の事務所は、長年通ってきた日母事務所と同じ市ヶ谷の保健会館にあり、ずっと狭いものでした。 その狭い事務所にぎゅうぎゅう詰めで常務理事会を開催していましたが、すべて日母を小型化したもの。 それはそれなりに生きがいをもって仕事をすることができました。

○ 東京産婦人科医会 副会長

この頃、日本母性保護医協会が日本産婦人科医会と名乗ることを監督官庁から認められ改称しました。 東京の場合は任意団体で行政の縛りはなかったのですが、日母の東京支部ということもあり、親にならって東京産婦人科医会に改称。

大村執行部の2期目が終わる役員改選で、それまで副会長だった小林重高先生が新会長となりました。 小林先生は慈恵産婦人科医局の先輩であるとともに、馬術部の先輩で東京乗馬倶楽部の練習などを見に来て頂いたこともあります。 会長になるにあたり、私に副会長の指名がありました。体育会系の先輩の指名とあっては素直に受けざるを得ません。 小林会長は江戸っ子で言葉の歯切れもよく、会長職の仕事もテキパキと小気味良くこなす会長で、これまた生きがいをもって副会長職を全うすることができました。

小林会長が保険会館のオーナーに話をつけ、事務所をもっと広い部屋へ移すことができました。 時を同じくして日本産婦人科医会も市ヶ谷のもっと広い建物へ移転することになりました。 昔のよしみで日産婦医会に話をつけ、古いデスクや椅子・本棚・ロッカーなどを東京産婦人科医会へ譲り受けました。 引っ越しは事務局2名と私と星合総務担当理事の4名で行い、事務所内のレイアウトは私が行いました。 これも私にとっては楽しい想い出のひとつ。

常務理事会の帰り、小林会長とご一緒することがよくありました。市ヶ谷の地下鉄ホームで「東京都医師会に産婦人科の理事が必要」 「現職の樋口理事(産婦人科医)が来春で辞めたいとのこと。後を引き受けて欲しい」との話がありました。 樋口先生からは「都医理事の仕事は忙しく、午後は休診にしている」という話を聞いていましたが、 私には借金の返済も残っており午後休診は厳しいのでお断りしました。しかし、その後も何度か口説かれ最終的にお引き受けせざるを得ませんでした (都医については都医の項で述べます)。

小林執行部3期目にして小林先生が会長を辞するにあたって、私に会長を譲りたいという話がありましたが、私は会長の器ではないと思っていましたし 東京都医師会理事の仕事が忙しいという理由でお断りし、町田常務理事を推薦しました。 かわりに私は監事に下がり、これでしばらくすればフェードアウトと思っていたのですが、町田会長の2期目に是非もう一度副会長をやって欲しいとのことで副会長に。

やがて町田会長が2期目で辞められるに当たり、私の医局後輩の落合理事を会長に推薦しました。 慈恵医大教授だった落合理事から「開業医のことは判らないので、大橋先生が監事でサポートしてもらえるなら」とのことで再び監事へと、 副会長と監事の間を行ったり来たりすることになりました。

○ 産婦人科関係の役職をすべて辞す

落合会長の役員刷新で理事の多くが若い勤務医となり、 常務理事会の雰囲気も大分変わってきました。2期4年監事を務めたところで「もう私なぞの居るところではないな」という気がしてきて、 役職を辞させて頂くことにしました。考えてみれば、1983年に日母の広報委員を仰せつかってから31年間、 役員としては日母辞職後1年の休職期間を除いて28年間 産婦人科の仕事を続けてきたことになります。

人生で最も油ののった時期でしたが、このようにボランティアに明け暮れ蓄財もできませんでした。 しかし、産婦人科ではトップクラスの人々と一緒に仕事をすることができ、その後教授になった人も多く、お互いに「やあやあ」という関係で 大きな人脈のできたことは、私にとって大きな財産となりました。

この31年間は産婦人科医会や地区医師会、東京都医師会などの仕事に打ち込み、とても充実した日々でした。