わーくすてーしょんのあるくらし ( 352 )

大橋 克洋

katsuhiro.ohashi@gmail.com

2022.06 いい時代にうまれた

○ いい時代に生まれた

今年で齢(よわい)80歳、振り返ってみれば私は本当に良い時代に生まれたと思っています。

関東大震災や太平洋戦争をくぐり抜けてきた私の父は「人間は必ず一生に一度は、そのように大変な経験をする」と言っていました。私も真珠湾攻撃の3ヶ月後に生まれ、太平洋戦争の経験をしてきたはずですが、3歳の時に終戦ということで、朧気ながら疎開先の記憶はあるものの、よく祖母が言っていた「克洋は空襲警報が鳴っても、防空頭巾をかぶると安心した」というのは記憶にありません。しかし以前も書いたように、ウクライナの空襲警報を聴くと胸の奥に一瞬ぞわっとした不安感を感ずるところをみると、記憶にはなくとも深層心理として残っているようです。

南支那の戦線から復員した父が建てた現在地の大橋医院。その頃、家族4人は8畳二間で暮らしていました。3度の食事はその日本間で、住込職員と家族全員ちゃぶ台を囲んでいました。映画「三丁目の夕日」の風景。風呂釜は薪で炊く、私はよく風呂の焚付をやったものです。楽しくてね。現在の若者はそのような経験がないので、修学旅行でキャンプしてもキャンプファイアーに火をつけられないとか。いきなり薪に火をつけても駄目なんだよ。最初は新聞紙を丸めたものなどに着火、その上に細かく削った薪や枝を載せ、その上に薪。

あれから70年以上、日本には平和が続いています。私の住む東京、幸いなことに阪神淡路大震災も東日本大震災も経験することなく済みました(東日本大震災の影響、ちょっとはありましたが)。私の余命あと何年かわかりませんが、あるとすれば首都直下地震あたりかなと思っています。それも何とかすり抜けられるのではないかと楽観的な私、、

しばらくして日本は高度成長時代に入ります。生活は今から考えれば豊かではありませんでしたが、皆が上を向いて歩いていた希望にあふれ活気に満ちた時代、幼少期から青年期を過ごしました。

小学校時代はラジオしかありませんでしたが、中学高校の頃 TV が現れました。高校から大学にかけては和製ポップスやテレビドラマが発達していく様を見てきました。

大学に入学した年、東北本線で最後の SL を経験しました。その年、大学病院前の駐車場は閑散としていましたが、それから3年もすると車は満杯になりました。日本のモータリゼーションが盛り上がってきた時代。日本初のサーキットが生まれ、創刊まもない「モーターマガジン」のスポーツカーの写真にうっとり、新車レポートやレースの記事に興奮したものです。

東京五輪の年、父に買ってもらった空冷2気筒のトヨタ・パブリカに馬術部の仲間を乗せ、軽井沢まで総合馬術競技を観戦に行きました。パブリカのエンジンルームは、フランス車 2CV のように極めてシンプル。自分でメンテンナンスしながら、車を理解していきました。

1980年代に入ると、パーソナルコンピュータ出現。独学でプログラミングを取得、その面白さにどっぷりはまり、コンピュータ仲間と楽しい時間を過ごしました。やがて UNIX システム(現在の MacOS や iOS のベースとなるもの)にハマり、世に先駆けネットワークの進化に随行。

私が、良い時代に生まれたと思うのは、車やコンピュータなどを、発展途上のシンプルな頃から経験してきたこと。これにより、それらの仕組みを身を以て理解できたことです。現在の車をメンテしようと思っても、ボンネットを開けた途端、ぎっしり詰め込まれた機器類を見て「ああ、これは手を付けるものじゃない」バタンとボンネットを閉めることになります。コンピュータ技術の粋をつくした iPhone なんぞ、開けてみようとも思いません。自分でメンテなんて問題外、、

思わぬ事故へのそなえ

戦災や父の言葉などで想い出しました。父がよく言っていたこと「道を歩いていても、いつ建物の上からものが落ちてくるかわからない。それを意識しながら歩くこと」、余談ですが「道を歩くときは、時々後ろを振り返り後ろの風景をみておけ。そうすれば復路で迷う心配がない」とも言ってました。昔の武士のように「常日頃から、イザに備えよ」との教えと思っています。

私が麻布中学に入学、一年目の遠足は大山でした。大山に登る途中の茶店のあたりで、同級生達が「おい、麻布の生徒が遭難したとラジオで言ってるぞ」。我々の一年上の二年生は相模湖、そこで乗った遊覧船が沈み、22名の生徒が溺れ亡くなりました。原因は定員オーバーとのこと。後年、大学の一年下に入学してきた水泳部の生徒は溺れる先生を助け岸まで泳いだとか。有名な「相模湖事件」です。これ以来、麻布の遠足は遠方には行かなくなり、水泳が必修となりました。

その経験があったので、船に乗るとまずそれが頭に浮かびます。毎年、晴海で開催されるビジネスショーを見に行っていた頃、ある年、竹芝桟橋から水上バスに乗った方が楽なことを知りました。万一泳ぐことになっても掴まれるよう、ビニール袋の入ったアタッシュケースを手に提げて。

小学校の頃、両親・弟と行った皇居の新年一般参賀、二重橋を渡るところで大勢の参賀者が将棋倒しになり亡くなった「二重橋事件」を経験しました。私達が二重橋を通過した後で事故は発生しましたが、身動きできないままゆっくり流される群衆の中で父は周りの人達に「倒れるなあ、倒れたら死ぬぞ〜」と大声で叫んでいました。これ以来、密集する群衆の中では、これを心に置いています。

このように「平時にあっても、不測の事態への心構え」を教えてくれた父に感謝。私は子供たちにできてないなあ、、ということで、この WebLog に書いてます。それぞれに成人し各地に散った子供たち、読んでくれてるかな、、

父の戦地での経験から

父は話が上手で、食事のときは家族によく色々な話をしてくれました、、

戦局がすすみ、父は30歳を過ぎてから赤紙が来て応召しました。開業医だったので、軍医の見習士官。最初の新兵訓練の頃、農家の座敷で一休みとなったが、うっかり縁側に立て掛けた軍刀が無い。意地悪な兵曹に「天皇陛下から頂いた軍刀を粗末にするとは何事か」と、早速思い切りぶん殴られた。しかし次第に要領がよくなり、朝礼で「便所掃除出ろっ」と号令がかかると、まっさきに「ハイっ」と手を挙げる。それを繰り返すうち「大橋は、もういいっ!!」となったとか。父からの教訓は「人が嫌がる仕事は率先してやるべし」「逃げようとすると追っかけてくるが、追いかけようとすると逃げていく」「嫌な仕事も自分からやれば、そう嫌な感じでもない」。

ヒゲの部隊長が朝礼台で偉そうに訓示をたれていると、兵舎の屋根にとまったカラスが「バカあ、バカあ」と鳴いていたとか。

敵の空襲で皆は一目散に防空壕へ。父と仲の良かった見習軍医が防空壕でなく、医療機器を入れる大きな金属製の箱の中へ「この中にいれば安全さ」。空襲が終わり皆が防空壕から出てきたが、彼はなかなか出てこない。箱を開けてみると、ほんの数ミリの爆弾の破片が心臓を貫き亡くなっていた。

軍隊で産婦人科はとてもツブシが効いたそうです。外科手術も内科もできるし、女性にも子供にも対応できる。中国戦線の奥地で「軍医殿、地元の中国人から医者の依頼です」。中国人のお偉いさんの奥方が難産で救いを求めているとのこと。迎えの中国人に連れられ行ってみると、荒野の中に汚らしい塀をめぐらした広い屋敷。入ってみると驚いた。中はとても立派な御殿のような屋敷。無事、出産を終え帰ったが、とても歓待され、まるで竜宮城のようだったとのこと。

香港の街で中華料理店に入った。炊事場を覗くと、大きな鍋の中から鎖に釣られた大きなものがガラガラと引き上げられた。何かと思ったら豚の頭だった。

終戦とともに香港で捕虜生活。長い捕虜生活の中でノイローゼになり自殺する兵隊もいた。何と水を張った洗面器に顔を伏せ自殺していたとか。父はそのような生活で退屈することもなかった。床に描いた幾何学の問題を解くとか、いくらでもやることはあったそうです。「巌窟王」のエドモン・ダンテス。これは私も受け継ぎました。何もない当直室にいても、コンピュータのプログラムを考えていれば退屈することなどない。私には「退屈」という言葉がない、、

復活する経木

プラスチックゴミを減らすため、経木の復活を TV で取り上げていました。若い人達は知らないでしょうが、経木とは木材を紙のように薄く削ったもの。1960年代くらいまで、魚屋では魚を経木で包みそれをさらに新聞紙にくるんで渡してくれました。イクラや塩辛なども経木を折って作った容器に入り店頭に並んでいました。要するに現在の食材を包むプラスチックの前身。TV では、現代のお弁当屋でおむすびのパッケージに経木を使っていました。プラスチックに比べ、自然素材である松の経木は保湿性、抗菌性があり、軽く、捨てられても環境を汚さないのが大きなメリット。

つい最近まで居酒屋などで、経木に墨で書いたお品書きを目にすることがあったのを考えると、まだ魚関係では経木が使われていることがあるのかな、、

私が中学の頃、飛行機の紙製ソリッドモデル作りにハマっていました。この時欠かせないのが経木。主翼や主脚なども画用紙で作りますが、そのままでは強度が足りないので中に経木を入れて芯にする。プラスチックが普及する前の時代、ゼロ戦などのキャノピーはセロハンにハサミで切れ目を入れ立体にしてセメダインで接着。最後にラッカーで塗装し完成。戦闘機の他にも色々な軍用機を作り、並べては悦に入っていました。戦艦大和はじめ日本海軍の軍艦も色々作りました。プラモデルが出てきたのは、それから何年も経ってから。

話を戻して経木ですが、脱プラスチックの流れの中で、今後経木の復活と多方面での活用が望まれます。TV 番組を見ると、経木は専用器械で削りますが、単に機械任せというわけにはいかず、熟練するまで結構年季を要するとのこと。頑張ってもらって、いずれは日本だけでなく世界的にも経木の利用が広まると良いですね。我が家でも、分別ゴミの中に占めるプラスチック・ゴミの量が極めて多い。食材はじめ、あらゆるパッケージに使われているため。経木なら使用後は放置されても自然に還り、環境を汚す心配はまったくない。燃やすのも簡単。

6月から記録破りの猛暑つづく

今年は例年より早く梅雨入り宣言がありましたが、雨の日はそれほど多くなく、3週間ほどで今月末には梅雨明け宣言。梅雨の期間がこれだけ短く6月中に梅雨明けというのも記録破りだそうです。

6月というのに月末は35度以上の気温が5日以上連続するという観測史上初めての猛暑。寝室で扇風機をかけるようになりました。まだ寝室に冷房をかけるほどではありませんが、自室では冷房をかけるようになっています。35度を越えた初日は窓を少し空かして冷房をかけず全身脂汗で頑張ったのですが、さすがに2日目からは冷房をかけることに。

この状況で東京は電力不足が予想され、TVでも節電が呼びかけられました。その結果、東京でも5%以上の節電効果がみられたとのこと。日本って凄いですよね、コロナ対策でもそうですが、政府から罰則や強制を受けたわけでもないので、日本国民のほとんどが素直にそれに従う。世界の他国をさがしても、こんなにお行儀の良い国はないと思います。

節電効果は、そのような理由の他に、ロシアのウクライナ侵攻に伴うあらゆるものの値上げの結果としての電気量の値上げも後押ししただろうと思われます。

今月の歩術

やはり80歳になってからの体力低下は改善されていません。それでも何とか頑張って早朝散歩は続けていますが、時々さぼる日が挟まるようになりました。

一定の年齢を過ぎると、5歳区切りくらいで運動能力に変化があることは覚悟していましたが、80歳の区切りがこんなに大きいとは、、昨年までは、ある程度の体力低下があるとはいえ7キロくらい歩くのは平気だったのに。コロナ環境が始まったのは2年半前だったので、コロナの影響だけとは思えません。

マスクのためもあって、歩くうち次第に酸素不足で視野ももうろうと、途中で1回程度ベンチで一休みしたくなります。自販機で飲む冷たいドリンクで一服の季節となりました。

そんな状況ですが、何とか頑張って月100キロをかろうじて達成できました。今年は梅雨に入っても雨が少なかったのも幸いしました。それにしても今年1月には160キロも歩けていたのに、何で80歳を境としてこんなにガクッと落ちるのかなあ、、

さて夏至と日没時刻の関係は

昨年12月「今さら知った冬至と日没時刻」というタイトルで、冬至と日没時刻最早とは数日ずれるということを書きました。では夏至もずれるんだろうなと、、

ネットで調べてみると今年の夏至は6月21日ですが、日没時刻がもっとも遅くなるのは6月23日から7月4日までの間だそうです。では、実証してみようと、昨年の冬至のように私の書斎窓からみえる「渋谷スカイ」ビル最上階に夕刻一列に灯る照明の点灯時刻を毎日チェックしてみました。

すると6月26日の点灯時刻が午後7時11分でした。これが一番遅いのかな? しかし7月4日まで追っかけてみなければわかりませんね、、ということでウオッチを続ける。6月29日になって見ていると7時11分を過ぎ、20分になっても点灯しない。「あれ? ああそうか。猛暑による電力不足、渋谷スカイも節電のため最上階の電飾点灯を中止したのか」しばらくして気が付きました。