東京都医師会

○ 東京都医師会の理事に就任

2003年、東京産婦人科医会の小林会長から東京都医師会理事に推薦されました。 正式には地元医師会の推薦が必要、 小林先生は健保審査会で荏原医師会の甘利会長と面識があり根回しもされていたのだと思いますが、 甘利会長からも喜んで推薦を頂きました。

そして5月の役員選挙の結果、東京都医師会理事の一員となりました。東京都医師会の会員は約2万人、 日本産婦人科医会も私が幹事をしていた頃は全国約1万3千人の会員を擁していました。 しかし驚いたのは、日産婦医会には常務理事・幹事あわせて40名ほどの役員がいましたが、 東京都医師会ではたった15名の理事で2万の会員を仕切っていることでした。そのうち判ったことは、 日産婦医会では約20名の幹事が実務の多くをこなしていたため事務局は比較的少人数だったのに対し、 都医では実務をずっと大勢の事務局で執行していました。この事務局が非常にしっかりしており「なるほど、官僚と同じ仕組みか」と思いました。

比較してみると「なるほど森山会長の作った幹事制度というのは、非常に経済効率も高く、幹事が常務理事に上がる仕組みも効率良い流れ」 とわかり、いまさらながら感心しました。

○ 年齢にともなう思考力低下と劇的な改善

東京都医師会理事に就任直前、還暦を堺として思考能力の明らかな低下を感ずるようになりました。プログラミングのように複雑なものを考えようとすると、頭の中が「水飴をこねるように」言うことをきかず、複雑なことを考えるのが非常に面倒になってきました。「まあ、年齢だから仕方ないか」と思っていました。「飯より好きなプログラミングもこれでおしまいか」と諦めていました。ところが、劇的なことが起こったのです。

「2万人の会員を擁する都医理事になるからには、打たれ強くならなければいけない」と考え、筋トレ・ダイエットで体重を絞ることにしました。私の身体はこれまでの人生でもっともメタボな状態でした。「体重を減らすなんて訳ない、食わなきゃ絶対減るはず」とダイエットで減らしました。しかし年齢的に減量だけでは筋肉量も減ってしまうので、一旦減った体重を筋肉で補うため筋トレに精をだしました。

腹筋運動・ダンベル・懸垂などの他、一番大きな筋肉を使う効率良い運動として努めて歩くようにしました。毎日の都医通勤も地下鉄神保町駅からエスカレータを使わず階段で上がります。都医までは絶え間なく続く長く緩やかな上り坂。手にパソコンの入ったアタッシュケースを提げ登っていきます。山の上ホテル脇の坂の辺りが一番きつかったですね。都医会館に着くと玄関の守衛さんに挨拶し、エレベータを使わず階段で6階の理事執務室へ。これを毎日繰り返しているうち、体重はみるみる減っていきました。

目的は体力・気力を養うことだったのですが、あら不思議、思考力もスッキリ元に戻り、もうひとつ嬉しいことがありました。元のようにお酒が呑めるようになったのです。

都医理事になる直前、思考力低下とともに、若い頃から幾らでも呑めたアルコールが全然呑めなくなっていました。酔の回りが早く、帰りの電車で眼を開けていても気持ち悪いし、眼を閉じても気持ちが悪い。ある時は終点まで寝過ごし駅員さんに揺り起こされました「お客さん、もう終電で帰りの電車はありませんよ」。武蔵小杉駅を降りるとタクシーもいません。仕方なく自宅へ電話して家内に車で迎えに来てもらったことがありました。

筋トレ・ダイエットの効果で、この最悪の状況から脱し元の状態に復帰。再びアルコールが呑めるようになったのは嬉しいことでした。都医理事になる前は、これまでの人生で最もメタボの時期、加えて水虫を治そうと服用した薬剤の副作用で肝障害を起こしていたのだと思います。この肝障害がなかなか自然治癒せずアルコールにめっきり弱くなっていたのが、減量したことにより脂肪肝が解消されて肝機能が復活、同時に血中コレステロールの低下などにより脳循環が改善され思考能力が復帰したのだろうと思っています。

後日、私の痩せた姿を見て「大橋先生、ガンだと思いました」と言われました。悔しいことに、いくら痩せてもお腹の脂肪は最後まで抵抗し、最初に痩せてくるのが顔なんですよね。痩せる前の写真を見ると、顔がパンパンでした。

○ 唐沢会長

地区医師会の遠藤会長の元で理事を務め、遠慮なく意見を述べ「大橋君、俺が君の親父さんをいじめたからって、俺のこといじめるなよ」と笑顔で言われたことがあります。私は「先生を愛しているから言っているんですよ」と。前述のように日本産婦人科医会の坂元会長への一言は失敗でしたが、、

そんなことで、唐澤会長に仕えるに当たり「先生に言いたいことを言わせて頂くことがあるかも知れません」と予防線を張ったのですが、唐澤先生についてはまったくその必要はなかったことを後で悟りました。余りにも人格的レベルが高かったため。唐澤先生へ最初に発したこの言葉を恥じ入ることとなりました。

2万の会員や都民を守る責任ある仕事をしっかりこなしつつ、時にジョークも飛び交う和やかな雰囲気。 この都医理事会の雰囲気は、かつての日母常務理事会と非常に似ていました。これは私の大好きな環境。 唐沢会長は私と同い歳ですが、私よりずっと人間的価値の高い本当に尊敬すべき人と思いました。 とても穏やかな方なので、ついこちらもへらへらしていると「大橋先生、あれはどうなっていますか?」と痛いところを突かれる。 穏やかな僧衣の襟から鎧が覗くことがあるのです。 それまで私は世の中の偉い人は3パターンに分けられると考えていました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。 荏原医師会の遠藤会長は織田信長タイプ、甘利会長は徳川家康タイプなど。 しかし唐沢先生を知ってもう一つパターンがあると判りました。

下町の江戸っ子らしく唐沢会長の下では、正月の仕事始めには江戸情緒あふれる催しがあるのも懐かしい想い出です。 私が理事執務室でひとり机に向かっていると、唐沢先生が来られ小さな紙包みを頂きました「うちの方の佃煮だけど、どうぞ」。 「上に立つ人は、このようにさりげなく部下に心遣いするんだなあ」と感心したことがあります。 また演歌歌手の吉幾三が唐沢医院の患者さんだそうで、 ふらりと吉幾三を連れて執務室に入ってこられ「こちら、吉幾三さん」。 石原都知事も裕次郎同様かなり背が高く衆人の中で目立ちますが、吉幾三も TV で見るより実際は かなり背の高いのに驚きました。 都医でも日母と同様、夏の役員懇親会は夫婦同伴で行われ、奥様方とも顔見知りになれるのは良い習慣でした。

○ 医療情報担当理事

役員選挙に先立ち唐沢会長候補から電話を頂き、理事としての担当は何がよいか尋ねられました。 私の得意分野の広報はすでに広報委員だった野津原理事が担当するのでしょうから、医療情報の担当を希望しました。 当時、医療情報部は存在せず、調査部が「医療情報委員会」を担当しており、調査部担当となりました (2期目のときでしたか、新たに医療情報部を提案し、会長承認を得て医療情報部担当となりました)。

新執行部が稼働をはじめましたが、調査部というのはほとんど仕事がありません。そこで「仕事がないなら、自分で作ってしまえ」ということで、得意分野の医療情報関連の仕事を拡張することにしました。私は理事になる数年前から医療情報委員会の委員でした。

医療情報委員会での懸案事項を担当理事として早速片付けようとしたところ、担当事務から「大橋先生、ちょっと待って下さい」 と待ったがかかりました。「そうか、そうだよな、新任理事がいきなり仕事をどんどん進めてはまずいか」と 1年間おとなしくしていたところ、2年目からは理事主導でどんどん進めても事務局は素直に付いてきてくれました。 このようなところが官僚的ではあるのですが、事務局の理解を得てしまえば仕事はどんどんし易いのでした。

理事になりたての頃、東京都から「情報開示・地域医療連携推進モデル事業」という補助金事業が来ていました 「都内の医療機関に電子カルテを普及させよう」という東京都主導の事業。 都の担当者と何度か打ち合わせ詳細を聴いてみると、 そこで使われる電子カルテは「インターネットを経由したセコムの電子カルテ」。 この構想は私が考えてきたものと合致するものでもあり、都と都医とで構想を練ることになりました。 年度末になって補助金が都医に入ると思いきや、億の単位の補助金のうち都医にはいるものは微々たるもの。 その多くは報告書や議事録などの文書作成費として仲介業者へ入るとのこと。「公共事業などで業者と行政との癒着がよく新聞沙汰になるが、 補助事業とはなーるほどこんな仕掛けなのか」と、、

「セコムの電子カルテは利用料の安いのが売り」とのことだったのですが、話が具体的になってくると利用料はとんでもない額に。 セコムがやる以上、セキュリティーをがっちりする必要あり費用が高くなるのは判るのですが、話がまったく違います。 しかもこの電子カルテは Web アプリでなく、融通の効かない ASP 型というのも気に入りません。 そんなことで都の担当とは、事務局が「大橋先生やめてください」というほどの喧嘩をしました。 もう少し後であれば、喧嘩するにしてももっと老獪にやったのですが、血気盛んな新任理事のお手つきでした。

○ HOT プロジェクト

「都内医療機関に電子カルテを普及させ、医療情報伝達の円滑化により都民の健康を守る」という東京都の構想には賛成でしたが、 やり方がまずい。Seagaia meeting などで見聞きしてきた情報によると「補助金はあくまで立ち上げに対するもので維持費は出ない」 このため補助金事業の殆どが「金の切れ目が縁の切れ目」補助事業が終わるとともに終焉しています。 そこで理事2期目に入るにあたり、補助金に頼らずあくまで東京都医師会の自前予算でコツコツとシステム構築することを提案、 理事会決済を得ました。事業名を「HOT プロジェクト」と名付けました。 Health of TOKYO の略です。「このネットワークを使うことにより、 都民がほっとする」という意味にもかけています。

HOT プロジェクト推進にあたり「作業部会」を設けました。 IT に精通した厳選されたメンバーだけによる少数精鋭主義、Seagaia meeting で懇意にしている IT 企業の中島さんや 大学病院の医療情報を担当している小塚先生などにメンバーとなってもらいました。

まず都医自前のサーバを用意し都内医療機関から利用してもらう構想で、利用はユーザが OS やハードの違いに気を使う必要のない Web アプリケーションとしました。最初のサービスとして、医療機関相互に紹介状の交換をしたり受診者が自分の情報を閲覧できる PHR: Personal Health Record を用意。 これは宮崎で運用されている Dolphin プロジェクトのもので、東京都医師会にソースを提供してもらいました。 国の補助金事業で数億かけて作られたものですが、稼働から何年も経たこともあり私の人脈を駆使し お友達値段で提供してもらいました。

しかしいくら PR しても なかなか利用者が増えてくれません。 セキュリティーを厳密にするため、利用にあたっては東京都医師会に登録料を払ってユーザ登録し、 提供された CD-ROM で自分の端末にセキュリティー設定が必要。この手続や初期設定が、私自身がやってもかなり面倒です。 そこで理事会の承認を得て、登録用CDや登録料を無料としました。 セキュリティーについて「銀行口座と自分の医療情報とでは、どちらが見られては困るか」と尋ねれば ほとんどの人が「銀行口座」と答えるはず。Web で自分の銀行口座へのアクセスはユーザID とパスワードで済んでいるではないか、 ということで HOT のサーバへのアクセスもユーザID とパスワードだけでできるよう簡素化しました。

○ 電子処方箋

PHR だけでは食指が動かないので、診療予約その他、いろいろな付加サービスを増やすことを考えました。 多くの医療機関で必ず使われるであろうものとして「処方箋」があります。そこで「電子処方箋」のサービスを開発しました。 Web でアクセスすれば処方箋を作成することができます。薬局側が対応してくれれば、それをそのままネットワークで送付することも可能ですが、 薬剤師会を訪れてみてもまだ時期尚早のようです。そこで処方箋を PDF でプリントできるようにし、当面は従来通り紙の処方箋として利用できるようにしました。

改良を進めるため、私自身も自分の電子カルテ NOA の処方箋を使わず、NOA の脇に Web ブラウザーを開き、しばらく HOT の電子処方箋を使って診療することにしました。 処方箋をプリントアウトできる他、電子データもコピー・ペーストで電子カルテへ取り込むことができます。 1年以上の運用で、かなり実用的なところまでブラッシュアップすることができました。

電子処方箋の開発やメンテナンスは、あるデベロッパーが国の補助事業を使いベンダーに開発依頼し行っていたのですが、 そのデベロッパーが突然消滅し、電子処方箋も頓挫することになります。次の事業年度に都医の予算を認めてもらい、 自前で電子処方箋開発を始めたのですが、都医執行部が選挙に敗れ退くことになり、結局このプロジェクトも消滅しました。

都医の電子処方箋が実用化されてから十年ほどして、国が電子処方箋を叫ぶようになりました。これは私が予想していたことですが、 いつも私の構想は世の中よりかなり早過ぎるのと、私のカリスマ性の無さから時流に乗れないのは残念なことです。

○ 日本医師会会長選挙

2006年、東京都医師会の唐沢会長が日本医師会の会長に立候補されました。 当時の日本医師会執行部が行政との対立姿勢だけで「このままでは日本の医療が駄目になってしまう」という強い危機感からでした。

石原慎太郎氏が東京都知事になった頃、しばらくの間石原都知事には医者を小馬鹿にしたような言動が目につきました。 しかし唐沢先生が都医会長になってからは、都知事と親しく話し合いをする中で、医療や医師会などについて、そして唐沢先生の人柄について 理解を得るようになり、以後、東京都医師会と東京都とは同じ方向を向いて都民のための医療行政を進めるようになりました。 都医の年末懇親会における石原都知事の来賓挨拶も医師会事業や医療について非常に理解あるものとなっていました。

唐沢先生は「対立でなく、相互理解を深めることにより事は良い方向へ進む」という考えで、 日本の国民医療をより良い方向へ向けるため、あえて日本医師会会長へ立候補の決意だったと思います。 選出母体である東京都医師会は一丸となって、唐沢日本医師会長実現のため全国を走り回ることになりました。 会長選挙は各地選出代議員の投票によるので、都医理事は全国の代議員を周って唐沢先生のお考えを伝え協力を求めました。

しかしこの選挙は関西勢から非常に大きな反発を喰いました。それまでの植松日医会長は大阪からの選出で、執行部の多くも大阪出身理事で固められていましたし、 植松執行部が成立して1期目の対立候補は植松執行部への批判的なものと考えられたからです。

日母の頃も、中央の役員として常務理事のカバン持ちとして年に1回地方を訪れ中央情勢について講演したり地元役員と懇親を深めたりしたものですが、 今回は日本医師会の選挙で同様の経験をしました。この選挙ではいろいろ印象的なことがあり、私の人生において忘れられない経験となりました。

われわれの努力のかいあって、みごと唐沢先生は日本医師会長に選任されました。通い慣れた宮崎へ唐沢会長のお供をして行った想い出とか、 タクシーで豊橋から大阪まで一筆書きのように代議員を訪問した想い出。 日医の IT 委員会で顔見知りの先生の診療所も何軒か周りいずれも留守でしたが「あの先生の診療所はこんな感じなんだ」と感慨深かったものでした。

関東以北の代議員は関西の先生方が面会を求めても会って話を聴いたのですが、 関西の代議員の多くが面会のアポをとろうとしても頑なに会ってくれませんでした。私が広島地区の代議員を訪問することになった時、 かつて馬術部時代に大変お世話になった毛利先輩が広島地区の医師会長をしていたことを想い出し、 毛利さんに電話しました「広島県の◯◯代議員にお会いしたいのですが、間をとりもって頂けないでしょうか」「◯◯先生ならよく知っているし、任しとけ」 との返事を頂いたのですが、数日後「大橋、やはり駄目だってさ。ゴメン」と電話がありました(これについては私の方が恐縮で、 日医の選挙が終わってしばらくしてから お礼の目的で広島へ行ってきました。 広島在住の他の馬術部 OB/OG を含め3名をポケットマネーで宴席に招待したのですが、それはそれで楽しい想い出となりました)。

唐沢先生の2期目の選挙も関西陣の意趣返し的な雰囲気は消えず、都医理事は一丸となって全国を周りましたが、 当時の政局の民主党への流れなども影響し健闘むなしく2期目の唐沢執行部は成りませんでした。

2006年の頃 携帯電話はかなり広まっていましたが「俺はIT に弱い」を自負する年配の先生方が、 選挙戦においては携帯を十分使いこなしておられたのにはちょっと感動でした。その2年後の会長選の頃には iPhone が登場していました。 年配の先生方はまだスマートフォンに手をだすところになっていませんでしたが、私は選挙戦で便利に利用させてもらいました。

これから周る代議員の住所・氏名・電話番号を iPhone のメモ帳に記録して出掛けます。 メモ帳の電話番号をクリックすると直ちに iPhone が電話を掛けてくれるとか、google map で代議員宅までの道順を見るとか。 タクシーで大阪へ向かう渋滞した高速道路では、タクシーの運ちゃんに「ここから◯メートルのインターで降りた方が早そう」などと伝えると 「お客さんの電話機はカーナビより便利そうですね」などと云ってくれました。 その後 google map はさらに進化し、ほぼカーナビ級の能力を備えるようになりました。

○ 東京都医師会会長選挙

唐沢先生は都医会長2期目半ばで日本医師会長になられ都医を去られました(日医と都医との改選時期は1年ずれています)。 唐沢会長の後任として鈴木会長が誕生。鈴木会長は唐沢路線を継承され、都医の運営も和やかに非常にスムースに行われました。

鈴木執行部の2期目が終わる改選の時、都医から日医の植松執行部へ移っていた都医元副会長の野中先生が都医会長に立候補。 鈴木候補との間で会長選が行われました。選挙の結果は、鈴木会長が大差で続投となりました。

その後も鈴木執行部はチームワーク良く都医の仕事をこなしてきましたが、3回めの改選を控えた2011年3月、東日本大震災が発生しました。 都医執行部は震災の支援に全力投球。通常ですと選挙に大きな力を注ぐ鈴木会長も 震災支援ならびに丁度重なった都知事選で石原慎太郎候補の選挙本部長として精力を注ぎ、 自分達の選挙運動には余り力を入れていませんでした。その5月の改選では再び野中候補が立候補ということでしたが、 前回の改選での大差に油断もあったと思います。

そして選挙当日、会場に行って初めて知ったことは、何と私や数人の理事の名前が野中執行部のキャビネット候補として載っているではありませんか。 事前に本人の承諾も得ず勝手に自分のキャビネットとして名前を挙げるとは常識ではまったく考えられないこと。 これには私も大きな憤りを感じました。そして投票の結果、まさかの1票差で鈴木会長の敗退。 野中候補のキャビネットに挙げられていた我々理事は、その場でメモに棄権の意志を書いて議長に提出。 都医の理事になって8年、そろそろ辞め頃ですが、HOT プロジェクトにもう少し目鼻がつくまでということで、 キリの良い10年目で辞めようと考えていたのですが、、

10年間勤めた日本産婦人科医会幹事を辞める直前には阪神淡路大震災とサリン事件、8年勤めた東京都医師会理事を辞める直前には東日本大震災が発生しました。やがて18年勤めた東京産婦人科医会を辞めるつもり、その時はどんな大災害が起こるのだろうと考えましたが、幸い何も起こりませんでした。 日産婦医会は会長の意志で辞めることとなり、東京都医師会は選挙の結果辞めることとなったのですが、 東産婦医会の場合は自分の意志でやめたので何事もなかったのかなと思っています。

○ チームワークの良かった理事仲間

私の在籍した頃の理事仲間は、ひとり残らず都医の仕事に心をこめて打ち込むとともに、とてもチームワークの良い仲間でもありました。 理事を辞めた後も9名の理事仲間との毎月の呑み会が何年も続いたのは、この頃の理事仲間のチームワークを示す何よりの証拠。呑み会には「飲兵衛」というニックネームがつきました。

 「飲兵衛」会には奥様やご主人同伴だったり、途中からは亡き内藤副会長の奥様もメンバーに加わったりしてメンバーは10名以上に増えていき、毎月の例会が10年以上も続きます。

このような呑み会の幹事役は避けたがるものですが、この会では逆に次の月の幹事を希望するメンバー続出、次々と手を挙げるので半年先まで決まってしまうことも珍しくありません。そのように仲の良いメンバーの呑み会で、当日は開始30分から1時間前にメンバーが会場に集まりはじめ、待ちきれず呑み始める。定刻に到着すると、すでにほとんどのメンバーが集まり盛り上がっているという、皆が楽しみにしている会となっています。