大学時代

○ 大学受験にあたって

大学を受験するに当たって父に「建築へ進みたい」と希望したところ、 「とにかく医者になって、建築は趣味でやれ」という返事が返ってきました。 内心「趣味で建築をやれるはずもない」と考えたものの、 「開業医の長男とあっては仕方ないか」との諦めもあり、 それ以上何も言わず素直に父の意思に従いました。 私のやりたいのは家を建てることですから、 趣味でやれるわけもありません。それでも、脳溢血で倒れる直前の父が建て直した大橋医院のさらなる大幅なリフォーム、車いすで移動しやすいよう自宅をバリアフリーにリフォーム、神奈川県秦野の山荘建築、そして診療所・自宅を等価交換方式のマンションに建て替えなど、幾つか自分で設計した家の建築ができたのは幸せでした。

現在でも「もし建築家になっていれば、必ず名を成せたはずだがなあ」 などとも思いますし、やはり「建築に進んでいれば良かった」とも思います。 好きなことを仕事にできたらどんなに楽しい人生だろうと、、こんなことから、 自分の子供達には親の希望で職業を押し付けることはしませんでしたが、 長男だけは自分から「医学部へ行こうかな」ということで、 反対する理由もなく一人だけ医師になりました。 卒業して最初は産婦人科を継いでくれそうだったので、 『産婦人科になるならまず2、3年内科を勉強してから」と言ったところ、 本人もその気で内科へ入りましたが、結局そのまま内科医になってしまいました。

母校慈恵医大産婦人科の教授に「息子が産婦人科に入る予定ですが、その前に2,3年内科の修行をさせます」と挨拶に行ったところ、教授から「きっと内科になっちゃうよ」と言われました。その通りでしたね。きっとそのような前例があったのでしょう。

親としては自分の職業を継いでくれれば こんな嬉しいことはありませんが、 産婦人科の大変さは身にしみてわかっていますので、 それはそれで良かったかなと思っています。 せめて自分だけは父の家業も継承できましたし、 思いがけず医師会や産婦人科医会などの役職でも、父を越えることができ、尊敬する父へ恩返しできて良かったと思っています。私は最後まで両親の面倒をみたつもりですが、 世の中が変わり子供が親の面倒をみなければいけないということもなくなったのか、 世帯をもった子供たちもそれぞれの生活に生きており、 私たちの老後は自分たちで何とかしなければいけなくなったようです。仕方がないことと諦めています。

「両親の面倒をみたつもり」と書きましたが、後から考えると足りないことばかりでした、、孝行したい時に親はなし。

○ 慈恵医大へ入学

大学受験では、中学に続いてまたも慶応を受けました。 麻布学園から三田の慶応までは近いので、歩いて受験票を出しに行きました。 確か受け付け2日目でしたが、受験番号が何と3番だったのには驚きました。 続けて同じ日に出した慈恵医大の受験番号は18番だったと思います。 小学校や中学校の受験では、早い受験番号をとるため 親が前日から徹夜で並ぶ記事がよく載りましたが、 大学ではそういうことはなかったようです。 結果はまたしても慶応は駄目でした。 父は「慶応はしょっちゅう同窓から寄付ばかりとるのに 子弟を入れてくれないのはけしからん」と憤慨していました。

しかし後年、父が脳溢血で倒れた時「やはり慈恵に入っていて良かった」と思ったものです。 慈恵医大の医局からは代診の先生を何人か派遣してもらえましたが、 慶応ではそうはいかなかったでしょう。 家業の継続にはかなり困ったと思います。

慶応の合格発表があった後に、慈恵医大の口頭試問がありました。 試験官に「君は他にどこを受けた?」と聞かれたので 「慶応医学部を受けました」と言ったところ、 「どうだった?」というので「一次試験で落ちました」 と言うと、「そんなやつは慈恵に入れたくねえな」と言われました。しかし、うまいこと慈恵医大に合格することができました。

入学してみて、その試験官は薬理の中尾教授だったことがわかりました。 慈恵医大の試験場で、慶応の試験場でみかけた学生を見つけました。 成城学園の独特の制服を着ていました。 また同じクラスになったことはありませんが、 麻布で見かけた学生も目に入りました。 二人とも無事 慈恵医大に入学し、前者が鰺坂、後者は橋本でした。

これから始まる慈恵の予科2年、本科4年の学生生活は、 これまでの小・中・高校時代に比べ何倍も密度の濃い、 人生のピークに位置づけられる「燃える青春時代」となりました。

○ 国領校舎

慈恵医大には戦前予科がありましたが、その後なくなり、 成蹊大学のような医学進学過程のある大学から慈恵本科へ入学するしかありませんでした。 われわれがその後の予科復活の第一期生となりました。 国領にできた医学進学過程(予科)は木造プレハブという感じで、 廊下を歩くとギシギシと大きな音がしましたが、 まがりなりにも新築校舎でした。 第一回生ということで上級生も居ませんし、 教師陣も新任ばかり、 高校生活の延長のような気楽で生き生きとした学生生活を過ごすことができました。 ちょっとお高くとまった良家の秀才達のひしめく麻布時代とは違い、馬術部生活も相まって 本来の自分を取り戻せる環境となりました。

授業内容もまだ医学に特化したものは余り無く高校の延長のようでしたが、 語学だけは大変でした。 日本語や英語はともかく、いきなり、ドイツ語、フランス語、ラテン語、 という初めての語学が一斉にスタートしました。 アルファベットだけでもエー、ビー、シーだか、アー、ベー、ツェーだか、 こんがらがってしまいます。

入学して最初の体育の授業だったと思いますが、 先生の引率で第三病院の裏にあるグラウンドに向かいました。 グラウンドの真ん中に、 戦時中の火薬庫の万一の爆発にそなえ 四角く囲われた堤防があったのを覚えています。 予科の敷地の隣にはジューキミシンの広い工場がありますが、戦時中はグラウンド地下に機関銃工場があり、 付属の弾薬庫があったようです。 この弾薬庫の堤防はすぐ取り払われ、 予科学生のグラウンドとして整地されました。

学生服のとても似合わない年をくってそうな、 それでいてとても親しみやすい笑顔の、 やや小太りの同級生がいました。 後年「ムーミン」というあだ名になる伊村という男で、 その後彼も産婦人科医局に入り親友になりました。 誰が見ても「ムーミン」で納得する容貌でしたが、 まだムーミンは TV で放映されておらず当時はカバというあだ名でした。 その他に、川口、古平と私が仲良し4人組で、 それぞれゴリラ、クジラ、ウマのあだ名で呼ばれていました。 何十年も経ってから知ったことですが、 偶然なことに伊村、川口と私の家の墓地はいずれも鎌倉霊園、 しかもそれぞれの敷地は下駄をつっかけて行ける距離にあります。 皆あちらへ行ったら、またお互いにからかったり、 仲良く遊ぶことができるんでしょう。

予科へは京王線の国領か、小田急線の狛江から徒歩かバスで通います。 徒歩通学中に車と接触して怪我した学生があり 「死のダンプ街道」などとも呼ばれました。 ダンプカーがよく通る歩道のない狭い街道を、身をすくめるように歩いたものです。 当時は日本が高度成長期に入る時代、大きな建設事業がどんどん行われはじめていたためでしょう。

木造校舎ということで、暖房は石炭ストーブ。 ある時、授業前にストーブをいぶして教室に煙を充満させ先生を閉め出して授業をボイコット、校舎の裏で雑談していたことがあります。 現在のように陰湿だったり異常な行動はありませんが、 馬鹿げた悪戯やおおらかさは常にありました。まさに高校時代の延長。 物質的には貧しくても、のんびりと良き時代でした。

○ 西部劇

TV は西部劇全盛の時代。 スティーブ・マックイーンのデビュー作「拳銃無宿」、「ローハイド」にはクリント・イーストウッドが端役に近い役で出ていました。その他「幌馬車隊」「バット・マスタースン」「ララミー牧場」など、 色々な西部劇の連続物華やかなりし頃です。 私も秋葉原で買ってきたガンベルトに6連発をさし、 撃鉄をヤスリで削り軽くし、早撃ちの練習に凝ったりしたものです。

自分で布を裁断しミシンをかけて、 カウボーイや騎兵隊のシャツを作ったりもしました。 ズボンにも挑戦しましたが、ズボンは立体構造が必要で結構難しく、 一回トライしただけでした。 後年、開業してからは、 自分のデザインで縫製した白衣を着ていたこともあります。シンプルなデザインで使い勝手も良く気に入っていましたが、小さくなり着れなくなりました。

○ その他の趣味

大学では馬術部に入りましたが、 高校時代やっていた鉄棒も続けたくて、 麻布体操部の同級生が入学した駒場の東大予科の体操部で 練習をさせてもらったことがあります。 これは2度ほどしか続きませんでした。 日本のオリンピック体操チームを率いていた 近藤天さんに手紙をだして紹介された YMCA の体操クラブに入ろうと行ったこともありますが、 これも続かず馬術部に専念することになります。

高校時代にハマった建築設計も予科2年くらいまで続けており、 設計図やパースなどを描いていました。 毎年春には新入生勧誘のため、 馬術部のポスター作成などにも精を出しました。 これがきっかけだったと思いますが、 以後グラフィック・デザインにも大変興味を持つようになります。