わーくすてーしょんのあるくらし ( 374 )

大橋 克洋

katsuhiro.ohashi@gmail.com

2024.07 人生は選択の連続だ

○ 人生は選択の連続だ

「選択したものが、その先の人生となっていく」という文言に目が留まりました。まことに「そうだよなあ」と実感。

 前にも書いたように、「大学で馬術部に入ったのをきっかけに、仲間たちと思い切り過ごした青春という人生最大のピークの時期を得られた」「消極的・引っ込み思案だった性格が、積極的で見知らぬ人とも恐れず話せるようになった」「たまたま雑誌でみつけたパーソナルコンピュータ購入がきっかけで、コンピュータ仲間やソフト開発の世界が広がった」「世に先駆け電子カルテを開発、仕事に使うようになった」「それらがきっかけで、医師会活動や人脈が広がった」などなど。わらしべ長者のように、連想的に人生が展開していったのは、すべて一つの選択から。コンピュータのプログラム の中味も「YES/NO や多肢選択の組み合わせ」から成り立っています。つまり「どんな複雑なソフトウエアも選択の連続」、考えてみれば人生だってソフトウエアだもんなあ、、

 アップルの創設者 Steve Jobs がある時期から、決まった銘柄のジーンズと黒いタートルネックしか着なかったのは、いつも新しいアイデアの実現に情熱を注いでいた Jobs にとって「毎日、着る服を選ぶ」という作業を省くことは「仕事の生産性が上がる」という理由からなのだそうです。選択という作業が脳にいかに負担を強いるかということ。

 電子カルテなどソフトを開発していて、私がもっとも重視していたことは「いかに目の前からボタンなど選択肢を少なくするか」「ユーザの思考過程を先取りし、欲しい情報だけがさっと目の前に現れるソフト展開」「Simple is best」。医療現場で医師は「受診者の状況を把握・検査結果などを分析・診断そして治療について熟考」という作業へ集中的に全力を注いでいます。そんな時、馬鹿なソフトウエアが仕様もないことを何度も繰り返せば、どんどん脳に疲労が溜まりイライラもするというもの。

○ 日本の「畳む」文化

終戦直後、戦争から復員してきた父が裸一貫から借金で建てた診療所と職住一体の我が家の生活を懐かしく想出します。1940年代後半、まだ私は小学1年生でした。

あの頃、父母と私と弟、家族4人が暮らしていたのは畳の8畳2間でした。この他に入院患者さんの賄いと兼用の台所、浴室、便所、これが住まいのすべて。住宅と背中合わせに産婦人科診療所と2階にお産の入院室がありました。生活の殆どは畳敷き2間。ここに夜は布団を敷き、昼間は折りたたみのちゃぶ台を広げ、家族4人と看護婦さん3人お手伝いさん1人、その他に下宿人の医学生1人と食卓を囲み食事をしたものです。部屋にその他にあったのは茶箪笥とタンスがあったかな。このようにシンプルな生活、当時これは日本の中流家庭の平均的な生活だったはず。

私が小5の頃、夕食後 週に1度、生花の先生がいらして、母と従業員が習っていました。その間、父と私達兄弟は隣の8畳間でそっとしていたのですが、TV もない時代。父は近所の映画館に我々を連れ映画を観に行ったりしました。「ゴジラ」の最初の作品が登場したのは、私が小6の時でした。

ある本を読んでいて「なるほど」と気が付かされたのは「日本の畳む文化」。上記「布団」「ちゃぶ台」の他に、夏の夜は寝室に「蚊帳」を張ったり、服を掛ける「衣桁」「扇子」「屏風」「風呂敷」などなど。部屋の使い方も布団を敷けば寝室、ちゃぶ台を広げれば食堂、上等な座卓を出せば客間、金屏風を広げれば結婚式場にもなります。日本人はこのように「畳む文化」で一つの空間を多様に使うシンプルな生活をしてきました。

これこそ、まさに現在叫ばれるエコでありサステナブルですよね。ということで、私の生活も見直したいと思うのですが「うーむ」、なかなか身の周りの「畳めないものたち」をどうにかしようと思っても、難しいなあ、、はて、、

次のネタ考え中、、、

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時々のぞいてみてください

最近は面子などにこだわらず

少しずつ進む老化現象も正直に記録することにしています

なあるほど人間はこうして老けてゆくんだと参考まで