私の歴史と切り離せない渡辺行正先生の想い出

1999-10-22 東京産婦人科医会 会報 (荏原支部)大橋克洋

渡辺先生には私的にもいろいろお世話になりました。先生を偲び、想い出などをつづってみたいと想います。先生の想い出はどうしても自分の歴史と重なってきてしまいますので、私的な部分が多くなってしまうことをお許しください。

私は慈恵医大昭和41年卒業ですので、先生を最初に存じ上げたのは学生の頃、産婦人科教室の教授としての渡辺先生でした。私の父、伝六郎は慶應出身でしたが、当地で産婦人科を開業しており地区の役員などをしていましたので、東母会長になられた渡辺先生には色々とお世話になっていたのだと想います。私が学生の頃から、よく渡辺先生のお名前を口に出していたように記憶します。

私が医局に入って2か月目に、父は突然アポで倒れました。その時、東母会長の渡辺先生がわざわざ、私の家にまでお見舞いに訪ねていらっしゃり、大変恐縮した覚えがあります。初夏に向かって

そろそろ暑くなる頃でした。

それまで、先生には学生として医局員として接してはいたのですが、先生の能力を初めて知って驚いたことがあります。当時、慈恵は渡辺教授と細川教授の2講座に分かれていましたが、私は渡辺教

授の講座に属していました。私も結婚することになり、主任教授であった渡辺教授にご媒酌をお願いしました。披露宴の始まりに先だち、媒酌人として型どおり両家の紹介をして頂いたのですが、先生はメモも何もなしに、両家の紹介をよどみなく、しかもかなり詳細にされたのです。事前にある程度家族的なおつき合いでもあれば別ですが、見ず知らずに近い2家族の構成について、ひとつの間違いもなく詳細に述べられたのには本当に驚きました。もともと人一倍、諳記ものの苦手な私としては、心から敬服してしまった一瞬でした。

父が再起不能だったため、昼間は毎日大学から代診の先生をお願いしながら、医局生活と父の診療所の二重生活をしばらく続けました。昭和40年代前半の当時は、もっとも分娩の多かった頃で、大学で当直すればお産で起され、自宅でも毎晩のようにお産で起されるという365日当直で私の産婦人科医生活は始まりました。当時は分娩やアウスが多かったとはいえ、やはり毎日代診の先生をお願いするのは、経済的に無理となってきたため、やむを得ず医局を退局させて頂き、今度は主任教授としての渡辺先生ではなく、東母会長としての渡辺先生とお会いすることになりました。

優生保護法指定医を東京都医師会へ受領に行くと、東母会長の渡辺先生がいらっしゃって、直接手渡して頂きました。あの時はたまたま、現在東母副会長の小林重高先生ともご一緒に受領した記憶があります。東母の総会などに地元産婦人科の評議員として出て行きますと、よく渡辺会長から「よー、どうだい。元気にしてるかい」などと、お声をかけて頂きました。

開業して10年程経た頃、東母の坪井副会長からお電話を頂きました。東母の委員会の委員として出てくれないかという話でした。前に渡辺先生からも「大橋君、いずれ委員に出てくれよ」と、お話を頂いたこともあったのですが、丁度タイミング悪く、父から譲り受けた土地建物を元に等価交換方式で建て替えが始まる時だったので、事情をお話すると「建築があるんじゃ、しょうがないよね」と坪井副会長に了解して頂きました。またまた余談ですが、坪井先生の御子息は慈恵の馬術部で私の後輩にあたり、「坪井」と呼び捨てにする関係です。そんな関係で、坪井先生とは親子ともども親しくさせて頂きました。東母からのお誘いをお断りして2年後、ひょんなきっかけから日母の広報委員、やがて日母幹事ということになりました。そんなことで、結果的に東母のお誘いを蹴って日母の仕事をする形になりましたので、その後しばらくは渡辺会長と坪井副会長にお会いすると、何かバツの悪い思いをしたものです。

その後、10年程日母の幹事を勤めさせて頂きましたので、日母の支部長会や代議員会などで、渡辺先生とお会いする機会が多かったように思います。ある時、都内を運転していると前のタクシーの後部座席に、どうも見慣れた白髪のシルエットが見えます。どう考えてもあれは渡辺先生に違いないと並走してみるとやはりそうでした。今では真っ白な髪の方も珍しくはなくなりましたが、当時はとても特徴的だったことは皆様も御記憶の通りです。私の記憶の中には、あのダンデイーな渡辺先生の姿だけが生き続けております。

心より先生の御冥福をお祈りしながら、筆ならぬワープロの電源をおとすことにします。