父:傅六郎

○ 軍医として戦地へ

1910年10月9日大橋重房の六男として生まれました。子供時代を過ごしたのは現在の葛飾区と思います。重房が医師で父の兄弟2人が医師であったことから、父が医師を選んだのは自然の流れと思います。上の兄が眼科、次兄が小児科というなかで父が産婦人科を選んだ理由は「患者さんが退院される時 ”おめでとうございます” と言えるのは産婦人科だけ」だからだそうです。

 父は慶応義塾大学の産婦人科教室在職中は、 安藤画一教授の下で医局長を務めたこともあったようです。昭和17年頃に医局を退局、 現在地の品川区平塚(その後、荏原という名前に地番変更) で大橋産婦人科を開業しました。 しかし太平洋戦争が勃発し昭和19年に軍医として応召、南支那貿易給水部というところでマラリア班に配属「電波にてマラリア蚊を集める研究」をさせられたそうです。 終戦後、香港にて捕虜生活。

小学校同級生の二宮さんから小学校卒業60年以上も経ってから聴いた話では、この大橋医院は二宮さんの叔父様が内科を開業していた建物で、その方は北海道へ移り住み、それを私の父が譲り受けたのだそうです。父からもまったく聴いたことがありませんでした。

昭和21年、 私どもの疎開先である農家の縁側に 真っ黒な顔をして山のような荷物を背中に背負った男の人が現れました。 それが戦地から復員して来た父だったのですが、 父の出征中に生まれた弟などはわからず泣き出したものです。 父が背負ってきたものの中には米軍の食料だったレーションと いう四角い弁当箱状の缶詰がいくつかありました。 中にはチョコレートなどのデザートを含め、 とても美味しいものが入っていたと記憶しています。

その他に多少の医薬品や木製の簡易折り畳みベッドまで背負ってきました。これは開業をはじめるためにと もらってきたようです。さすが当時の兵隊さんは強いですね。

父は扁平足があったため、 歩くのは得意でなかったようです。 そういう面ではさぞかし戦地で苦労したろうと思います。 戦地で一生分歩いてしまったからかどうかはわかりませんが、 帰って来てからの父は近くの床屋へ行くのも車を運転してという 具合でした。

○ 親分肌

父は末っ子でしたが、 体格も性格も親分肌で面倒見がよく、 いろいろなところを仕切るのが上手でした。 当時の医者に多かったように、ちょび髭を生やし眼鏡をかけ貫禄のある容貌でした。

町会長、私の学んだ平塚小学校の初代PTA会長、荏原医師会長など、 長と名のつくものを色々やっていました。 私は子供の頃、大変引っ込み思案だったので、 まさか自分がこのようなことをやるとは思っても見ませんでしたが、 父の年齢に近づくとともに同じようなことをやっています。 DNA のなせるところですかね。

後日、地元の荏原医師会に入会してから、 色々な先生から「君の親父さんは偉かったんだよ」と言われ、 皆さんに尊敬されてたようで嬉しく思ったものです。 しかし私は父の親分肌で人を統率する能力を引き継がなかったようです。これはちょっと残念かも知れません。

父が亡くなって25年以上も経た2003年に、 東京都医師会理事を仰せつかりました。 最初の役員職員懇親会で、 都医の星事務局長ともう一人の職員の方から 「大橋伝六郎先生のご子息ですか」 と尋ねられたのはちょっと感動でした。 没後25年以上を経て、 さすがに地元医師会でも父の名が出ることは殆どなくなり、 ついに父もこの世では風化してしまったかと思っていたからです。 父現役の時から35年以上も経ていますので、 父もかなり記憶に残る人物だったのだろうと想像されます。

丁度、祖父の籾木穂積が蒲田医師会会長、 父(つまり穂積の娘婿)が荏原医師会会長をつとめていた時期があり、 二人とも東京都医師会の地区医師会長協議会に出ていた頃がありました。 父は医師会長を辞めて2ヶ月後に突然脳溢血で倒れましたが、 祖父はその後しばらく会長を続けており、 東京都医師会の帰りによく父の見舞いにこちらへ寄ったものです。

昭和30年前後:居間の父、後姿は中学生の私

○ 自家用車

私が小学校低学年の頃は、 映画「アンタッチャブル」にでてくるような黒い箱形のダットサンでした。 日曜になると父はよくこの車に家族を乗せ、 映画や食事に連れていってくれましたが、 これがよく故障しました。 銀座へ行くまでの間でよくエンコしたものです。 昭和20年代前半でしたから中古車だったはず。 父はこの車で「最高時速25km/h 出したぞ」と言っていましたが、 それは多摩川大橋の上だそうです。 当時は舗装が悪かったので、 多摩川大橋の上くらいしかまともな舗装が続く道がなかったのでしょう。 後年、私が早朝、車のいない中央道で HONDA1300 の最高速を試したのと同じようなことですね。

小学校高学年の頃、モーリスマイナーという英国車に換えました。 今度は新車です。ブリティッシュ・グリーンの小柄でキュートな車でした。 医師会の他の先生方は、フォルクスワーゲンのカブト虫や、 フランス車ルノーに乗っている方が多かった時代です。 この車で遠出ができるようになり、 湘南海岸へ海水浴へ行ったりしました。 昭和20年代後半の湘南海岸は夏でも人が極めて少なく、 海岸まで自由に車を乗り入れることができました。他に浜辺に乗り入れていたのは進駐軍のジープくらいしかありませんでした。

ちなみに、このモーリスマイナーは、後年モンテカルロ・ラリーなどで活躍する名車モーリス・ミニと同じアレック・イシゴニスの設計によるものです。

私が中学の頃、昭和30年代前半には、 いすずで生産されるようになったヒルマンを購入しました。 ヒルマンは2台ほど乗り換えたと思いますが、 記憶に残っているのは淡い奇麗なグリーンと白っぽいクリームのような ツートーンカラーのものです。 ああ、この新車の時の匂いも憶いだしますね。

私が大学予科に入った頃、まだ新橋の慈恵医大駐車場はガラガラで数台しか駐車していませんでしたが、私が本科へ移った頃から急に車が増え始めました。丁度、日本でモータリゼーションが急速に広まった頃でした。

昭和30年代末頃から 日本でもモータースポーツが盛んになりはじめました。第2回日本グランプリで式場壮吉のポルシェ904を 生沢徹のスカイラインGTが1周だけ抜いたという伝説のレースが行われ、 私もモータースポーツ誌に熱中していました。 その翌年くらいでしょうか父が車を換えるということで、 当時レースで活躍していた「いすずベレット1600GT」 の試乗につき合ったことがあります。 結局、父が購入したのは、 何とあの日本グランプリで活躍したスカイライン2000GTでした。 市販車としてレース出場のホモロゲーションをとるため、台数限定で販売されていた車、 当時垂涎の的だったウエーバーの3キャブを積んだ完全なレース仕様車でした。 これは凄い車で、 父が脳溢血で倒れた後も、数年私の愛車として活躍しました。

昭和30年代後半、大橋医院前にガレージ増設

○ 工作やメカ、音楽好き

父は工作や機械いじりが得意、カメラ、オーディオ、車、など色々と買い込んでいました。 階段下に現像室を設け、自分で写真の現像もしていました。 また、尺八、中古のバイオリン、中古のアコーディオン など購入し練習していました。尺八の方は師匠について教わったのではないでしょうか。 どちらかというと音楽を聴くより楽器を演奏するのが好きだったようです。

父の生きている頃パーソナルコンピュータがあったなら、 絶対にのめりこんでいたはず。 工作好きなどは私も受け継いだのですが、音楽に関して受け継いだのは1/3 位でしょうかね。私はカラオケでもどっちかというと軍歌や演歌の 方が得意という、、

子供の頃、よく父の工作している傍で 助手のように釘やドライバーを渡したり、 運転席の隣に座りワイパーやフォグランプの操作を手伝ったり、父のそばで何か手伝うのが好きでした。

残念ながら私が医者になる前に父は病に倒れてしまいましたので、 父の下で本業を手伝うことはできませんでした。 父が倒れた時改装したばかりだった診察室は、 2つの診療デスクが向かい合わせになっていました。息子と二人で外来診療をするのを楽しみにしていたのでしょう。 手伝おうと思えば医学生の頃できないことはなかったのでしょうが、 どうせ一生やらなければならない仕事を急ぐこともあるまい ということや、 息子が一人前近くなると必ずそうであるように、 その頃は他愛もないことでよく父とぶつかったりしていたのです。

例えば TV のミュージックフェアという音楽番組(これはかなり長寿番組となり、 父の没後も随分長く続きました)を居間で見ていると、 外来から白衣のままやって来た父が、 スタジオのフロアーの放射状の模様を見て「あれは床に描いたものだ」私が「いや、あれは照明で作った影だ」 というようなどうでもよい理由の争いを、 お互いムキになってやっていました。

その代わりという訳でもありませんが、 インターンの頃 祖父と叔父がやっている「モミキ眼科」の外来を手伝ったことがあります。 祖父は「これが息子で、これが孫で、」と 祖父から孫まで三代にわたる外来での揃い踏みを患者さんに自慢していました。 祖父にとってはとても幸せなことだったのだろうと思います。

○ 犬好き

父は戌年だったせいか犬が好きで、 私の知る限りずっと犬を飼っていました。 私が小学校に入る年、戦後の焼跡に新築した家の庭では、 (近くの栗原医院からもらってきたんだったかな?) 「クロ」という犬を飼いましたが、 ジステンパーか何かですぐ死んでしまいました。

その後すぐ「トム」というスピッツの血の入った雑種を飼いました。 原子爆弾のアトムから取った名前で、 漫画の鉄腕アトムが登場する数年前だったと思います。 どこかで拾ってきたかもらってきた古い風呂桶(小判型の木製の桶に 焚き口のついた今ではみられないもの)の 焚き口の釜を取り除いて犬の出入り口にしたものを犬小屋に していました。

昭和30年前後の当時は放し飼いだったのですが、 子犬の頃迷子で帰って来ないことがありました。 父は自転車で探し回り桐ケ谷火葬場の近くで見つけ連れ帰ってきました。 父の根性と動物的なカンも大したものだと思います。

私が中学の頃だったでしょうか、 トムが武蔵小山駅まで私についてきてしまい、 ホームまで上がってきてしまったことがあります。 電車に乗ってきたらどうしようと思ったのですが、 電車が来る前にホームから飛び降りて帰って行き、 胸をなで下ろしたことがあります。 「ここまでお見送りすればいいや」と思ったのかも知れません。 利口なものです。

その後、父は「ベル」というコッカースパニエルを買ってきました。 防犯ベルの代わりになるようにという命名でした。その前に空き巣に入られたことがあったからでしょうかね。 それまで犬は庭で飼っていたのですが、 ベルからは室内で飼うようになりました。 わが家で初めて血統証つきの犬だったこともあったのでしょうか。 こいつはまさに走るモップのようなやつで、 フローリングの上を走っていっては止まりきれず、 ドスーンと壁にぶつかったりしていました。 今までの犬は和犬の血が混じっていましたが、 ベルは一応血統証つきの洋犬です。 歳をとってくると我が強くなり、 自分の椅子を決めてしまってその上にふんぞり返り、 椅子に触ろうとするとウーとうなる始末でした。 やはり和犬の方が素直だなと思ったものです。

父の倒れる数年前からは「ラッキー」というアイヌ犬を飼っていました。 この犬も外へ飛び出して行ったきり行方不明となったことがありますが、 数ヶ月後に首輪につけた鑑札を見て小学生が連れてきてくれました。 どこかで喧嘩をしたのでしょう、 可哀想に片方の耳の先にぎざぎざに食いちぎられた跡がありました。 父が倒れてからは、母も父の世話で手一杯で室内で飼いきれず、 庭で飼うようになったのもちょっと可哀想だったかも知れません。

私も動物が好きで大学で馬術部に入りましたが、 この血はもっと色濃く末娘の七帆子が受け継いでいます。動物看護師などの資格をもち、トリマーとして店を出すまでになります。

昭和20年代:愛犬トム

○ 食事の際の面白いはなし

家族で食事をする際、父は色々な話をしてくれるのが常でした。子供時代、学生時代、医局時代や軍隊時代の話。

父が子供の頃ひとりで留守番で煮あずきの番をさせられていたが、入れる砂糖の加減がわからないので自分で味見をしながら入れていたところ、帰ってきた家族から「この小豆とても美味しい」と褒められたそうです。今から考えると入れた砂糖の量がやたら多かったようだと。

中学になるまでは数日前の献立などすべて覚えており、何で大人は手帳にメモをするんだろうと不思議に思っていたそうですが、中学に入って鉄棒から落ち頭を打ってから普通の記憶力になってしまったと言っていました。この頃、関東大震災がありました。2階にいた父は窓から隣の屋根づたいにトントンと地上に飛び降りたとか。震災後、友達と腰弁当で葛飾方面の自宅から品川あたりまで焼け跡を見学してまわったとか。結婚前の母はこの頃まだ小学校入学前で空き地で遊んでいましたが、大地震で転んだ友達が「○○ちゃんに押されたあ」と泣いていたそうです。

父が大学受験で列に並んでいると、兄が「おい、慶応に受かったぞ」と知らせに来てくれ、他の連中からうらやましそうな顔をされたとか。慶応大学医学部階段教室で講義を受けていると、教壇の脇の扉から後すざりしながら入ってくる学生がいる。隣の教室からエスケープしようとした学生とわかって、皆大笑い。

医局の頃の話。患者さんから立派な牛肉の塊をもらったが、硬くて食べられたものではない。病院の小使さんにあげてしまった。数日後「あんな美味しい肉をありがとうございました」と礼を言われた。「そんなはずはない」と食べてみると柔らかくて本当にうまい。そこで、肉は腐る前が一番うまくなるということを知ったとか。

私が赤ん坊の頃の話。よちよち歩いていた私が振り返るといない「あれ?克洋が消えちゃった」、台所床の上げ蓋が開いており そこに落ちていたが泣きもしなかったのだとか。ある時、ネズミが頻繁に出没。何とか捕まえてやろうと新聞紙を丸め筒にして片方をギュッとねじり閉じたものを床の隅に設置、ネズミが出てきたところで追いかけると筒に逃げ込んだので、すかさず入口を閉じ捕獲「ネズミの習性を知っていれば、こうやって捕まえられるんだよ」。

応召て見習士官の軍医として入隊したばかりのころ、腰の牛蒡剣を入口に置き休憩のため皆と座敷に上がったが、帰ろうとすると剣がない。「軍人の魂である剣を失くすとはなにごとか」と散々殴られた。意地悪な古参兵が置いてあった剣を隠してしまったらしい。しかし殴られたのはこの時だけのようでした。 要領の良い父のこと、上官が「便所掃除でろっ」と叫ぶごとに「はいっ」と毎回手を挙げていたところ、「大橋はもういいっ」と言われたとか。このように「嫌なことは率先して手を挙げるべし」というのは、後年わたしも実践し成果を得ています。

軍隊の朝礼で、部隊長が威張って訓示をしていると、兵舎の屋根にとまったカラスが「ばかあ、ばかあ」と啼いていたとか。 父のことをいつも頼りにしていた軍医の戦友についての想い出話。ある日、空襲があり皆は防空壕へ逃げたが、 彼だけは防空壕へ逃げず頑丈な金属製トランクの中に隠れたそうです。空襲が終わっても彼がなかなかトランクから出てこない。 トランクの中では、数ミリ程度の小さな爆弾の破片に心臓を射抜かれ亡くなっていたそうです。

戦地で兵隊たちの作った武器の展示会に陳列してあった「水道の鉛管を使った銃」などを見たとき「ああ、日本は負けるな」と思ったそうです。

軍隊で産婦人科はとてもツブシが効いたそうです。外科手術も内科もできるし、女性にも子供にも対応できる。中国戦線の奥地で「軍医殿、地元の中国人から医者の依頼です」。中国人のお偉いさんの奥方が難産で救いを求めているとのこと。迎えの中国人に連れられ行ってみると、荒野の中に汚らしい塀をめぐらした広い屋敷。入ってみると驚いた。中はとても立派な御殿のような屋敷。無事、出産を終え帰ったが、とても歓待され、まるで竜宮城のようだったとのこと。

香港の街で中華料理店に入った。炊事場を覗くと、大きな鍋の中から鎖に釣られた大きなものがガラガラと引き上げられた。何かと思ったら豚の頭だった。

 終戦とともに香港で捕虜生活。長い捕虜生活の中でノイローゼになり自殺する兵隊もいた。何と水を張った洗面器に顔を伏せ自殺していたとか。父はそのような生活で退屈することもなかった。床に描いた幾何学の問題を解くとか、いくらでもやることはあったそうです。「巌窟王」のエドモン・ダンテス。これは私も受け継ぎました。何もない当直室にいても、コンピュータのプログラムを考えていれば退屈することなどない。私にも「退屈」という言葉がない、、

親戚の集まりなどでも父の話はとても面白く、皆を楽しませるものでした。未だに私は話が下手で、これを受け継がなかったのは非常に残念に思っています。

○ 尊敬すべきところ

父は凄いなあ、と思ったのは、 山の中をドライブしていて暗くなってから車が故障して しまった時。今とは違い車の数も少ないですから、 行き交う車もない真っ暗な山の中。 こんな時も父は家族の前で不安の表情など絶対に見せません。 今考えると 戦地で何度も死線を越えてきた経験があったからでしょうか、 私もこんな父親になりたい、でも、なれるかしら、と思ったものです。 とにかく自信と実行力に溢れた尊敬する父でした。

私は子供の頃、多くのものに興味を持って取り組んでみるという 性格ではなかったのですが、歳とともに父の血が流れはじめたようです。 父はよく「困難な状況がくればくるほど、面白い、やってやろうじゃないか という気になる」と言っていました。私も現在は同じです。

終戦になってしばらく香港で捕虜生活を送りました。 捕虜生活が長くなるとノイローゼになる兵隊もいて、 洗面器一杯の水に顔を突っ込んで自殺した兵隊もいたそうです。 「ジャンバル・ジャン」のエドモン・ダンテスではありませんが、 父は捕虜生活中で手元に何もなくても 床に描いた幾何学の問題を解くなどしていれば退屈することなどない。 「退屈だ、退屈だ」という人が信じられないとよく言っていました。 これはまったく私も同じですね、 私も紙の上でコンピュータのプログラムのアイデアを 考えていれば退屈することはありません。紙がなければ、頭の中だけでもある程度プログラミングはできます。 私にとってプログラミングは興味のつきないゲームのようなものです。

父は母ととても仲が良く、 口での軽いやりとりはあっても夫婦喧嘩というものを一度も見たことがありません。 10才下の母を非常に可愛がっていました。 子供達を諭すことはあっても、 手を挙げることはもちろん 強い調子で叱ることも一切ありません。 そのせいかどうかわかりませんが、 私も弟も今から考えれば反抗期もなく素直な良い子でした。

こんな父を私は心から尊敬し大好きです。80歳を過ぎても時々、夢の中で普通にあの頃の父が居たりします。そういう私は「自分の5人の子供たちに このような思いを残せてやれなかったに違いない」と悔いています。

1956年、父が編集委員となり作成した慶應義塾同期会アルバムへの寄稿より