2017.07 大橋産科婦人科を閉院

わーくすてーしょんのあるくらし ( 293)

2017-7 大橋 克洋

武蔵小山商店街終端の大橋産科婦人科

このアーケード終戦後できた当時は東洋一と言われましたが

単一アーケードとしては今だに日本一の長さだそうです

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◯ 大橋産科婦人科を閉院

突然ですが、先月一杯で大橋産科婦人科を閉院しました。噂で聞いた人は「大橋先生、ご病気ですか?」とか、直接お会いした人からは「ええっ、まだまだこんなにお元気なのに」とか反応が返ってきます。個人事業主は身体さえ元気ならいつまでも続けることができるのですが、私はあえて75才を定年と自分で決めることにしたのです。だって身体が効かなくなってから自由を謳歌しても面白くないじゃないですか。

慈恵医大産婦人科医局に入って2ヶ月目に突然父が脳溢血で倒れたため開業したのが早く、開業から47年目で閉院ということになります。父がこの地に開業してからは75年余り。産婦人科医としては、父の倒れたその晩「先生、お産です」と叩き起こされ、大橋医院の婦長に初めてのお産を教わってからちょうど50年、まあ良い節目と言えるでしょう。

1F・2Fの診療所部分を貸すという選択肢もあるのですが、貸すという行為はなかなか煩わしいことも多いので、潔く売却することにしました。その話が急に決まり、6月一杯で閉院し7月下旬に建物の中を空にして買い手に渡すことになりました。5月始めにそのことをスタッフに話し、6月末まで勤務してくれれば7月分までの給与を支払うむね伝えました。職員全員最後の日まで献身的に働いてくれ、最終日は院内でスタッフ全員とともに記念撮影をし、名残を惜しんでくれました。

スタッフ達と待合室で記念撮影

5人の子供のうち長男が医者になっていますが、勤務医でこちらに帰ってくる気配は全くありません。私の場合、建築家かデザイナーになりたかったのに父から「まあ医者になって趣味でやれ」と言われ、内心「趣味で建築などやれるはずも無い」と思いつつ素直に医学部を受験しました。医局に入った途端父が倒れ、有無を言わさずあとを継ぐことになり両親が亡くなるまで一緒に暮らしましたが、時代は変わってしまいました。息子にそのような気もないようですし、こちらも強制するつもりはありません。仕方ないですね。

閉院に伴ってやらねばないことが沢山あります。しかもそれらの手順やタイミングをよく考え実行していかねばなりません。スプレッド・シートにやるべき事をリストアップし、実行しつつあります。google drive を使っているので、出先からでも iPhone を使って読み書きできるのは便利。以下参考まで書き残しますが、長くなるので個別に、、

◯ カルテの処理

一番大変なのがカルテの処理。私のところはもちろん電子カルテなのですが、万一の医事紛争に備え従来からの紙カルテもあります(私はこれをハイブリッドの運用と呼んでいます。カルテの見読性・真正性・保存性にやたらコストを掛け神経を使うよりシンプル・イズ・ベスト)。電子カルテのプリントアウトにサインをして紙カルテに貼り保存しています。47年前の開業当初から生涯カルテにすることに決め、一度でも受診した患者さんのカルテは永久保存してあるので、膨大な量になります。等価交換方式でビルに建て替えた際、移動式のカルテラックを設置。これで私の一生働く分のカルテが余裕で収納できると思ったのですが考えが甘かった。10年ほど前から満杯近くなり、仕方なく明治生まれや大正生まれの方のカルテは廃棄せざるを得なくなりました。

電子カルテの内容は永久保存ですが、なにせ紙カルテは猛烈に嵩張るので保存期間を過ぎたカルテはシュレッダーに掛け廃棄することにしました。しかし、やってみると遅々としてはかどりません。業務用シュレッダーもすぐ加熱しストップしてしまったり。これではとても建物引渡し期日に間に合いません。

そこで方針変更、かさばる厚紙の表紙だけを剥がし、専門業者に処理を依頼することにしました。カルテ廃棄業者で検索してみると、クロネコヤマトが機密文書リサイクル・サービスをやっているようです。書類を入れた所定のダンボールを開封することなく、そのまま溶解処理して再生紙にするとか。クロネコヤマトなら信頼できそうなので頼むことにしたのですが、カルテの表紙剥がしだけで大変な作業。家内や娘に手伝ってもらい、何日も掛けて処理するのですが、やってもやっても山のように未処理のカルテが残っていて賽の河原状態。数人で作業して2週間も掛かりました。クロネコ規定のダンボール10個も有れば全部入るかなと期待したのですが、非常に考えが甘かった。実際作業を進めると、追加に追加を重ね最終的に50個、費用は9万円少々かかりました。自分でシュレッダー処理すれば費用はかからないのですが1ヶ月近くを要し、とても建物引渡し期日に間に合いません。

こういうことから考えると、電子カルテなら運用を始めてからの約30年分がパソコン1台に余裕で収まっており扱いも格段に楽なのですが、費用的なことを考えると電子カルテの方がトータルではずっと高いでしょうね。

◯ 医療機器その他

医療器械については少しでも売れれば良いなと思いつつ、これもネットで検索した業者に見に来てもらいました。最近法律が変わったそうで、5年以上経た医療器械は再販できないことになり、それらは産業廃棄物として処理するしかないとのこと。未開発国へ売却できそうなものは買取りもありだそうですが、売れても1万円から千円くらのもの。購入時には数百万もし、まだ現役でバリバリに使える機器でも例外なく。何かおかしいぞと感じてしまいました。現代の陥っている矛盾を感じます。

2つ目の業者は医療器械屋で、買い取りについて条件は同じですが、それ以外の一切合切を産廃として処理してくれるとのこと、そちらに依頼することにしました。費用は40万円くらいかなと思っていたのですが、届いた見積もりを見ると80万近く。そのかわりトラック3台を予定しており、それに積めるなら廃棄物が増えても大丈夫とのこと。以前使っていた消毒用エチレンオキサイトガスのボンベだけは処理できないとのことでしたが、専門業者を紹介してくれ別途そちらで処理してもらうことにしました。2社見積もりをとってくれたのですが、ボンベたった1個の処理に10万円の見積もりと5万円の見積もりがあり、当然ながら後者に依頼することにしました。どうしてこんな差があるんでしょうね。

このように撤退には、やたら費用がかさみます。取り敢えず建物売却費用があるので、少し気が大きくなっているところが有るのですが、、

カルテ処理と並行して、諸々のものを産廃で出すに当たり院内すべての部屋の物を整理。これに3週間ほど掛かりました。昔々の懐かしいものも多々あったのですが、この際思い切って殆どを廃棄することにしました。自分にとってはとても思い入れのあるものでも、考えてみれば私以外の家族にとっては何の感傷もないものが殆ど。中には将来、歴史的価値があるだろうなと思うものもあったのですが、バッサリ廃棄。

昔の医師会会報や永久保存することにしていた私にとって初めてのコンピュータ PET2003・Apple II・NeXTキューブなども思い切って廃棄、歴史的には惜しいのですが。考えてみると人類の歴史上、このようにして失われた貴重な資料は山のようにあるはずですね。そうそう、倉庫の奥のホコリだらけの段ボールを開けてみると、私が小学生の頃愛読した「鉄腕アトム」の初版本や「サザエさん」「いじわる婆さん」などが一杯つまっていました。ネットオークションに出すという手もあったのでしょうが、その手間を惜しみこれらも廃棄。すっかり「断捨離」癖がついてしまいました。

◯ こうして院内は empty

撤退に備え院内を整理・処理はじめてから3週間余り、最終的にすべての医療機器や什器備品その他を産廃として搬出してもらいました。なるべく搬出しやすいよう事前に整理しスタンバイしたので搬出は1日で終わるかと思ったのですが、移動式カルテラックなどの解体に時間がかかるとのことで初日に搬出できたのは2/3ほど。すべて終了したのは2日目の昼になりました。建物内を養生し7人ほどのスタッフでの作業でしたが、4人ほどは中東方面と思われる外国人、なるほど最近はこっち方面の人達も働いているんですね。

すべて搬出しガランとした院内の様子を記録として写真に納めました。まあ後で見ることは殆どないでしょうが、今回格闘した書類やモノと違い最近はクラウド上に置くという技が使えるようになったので、もしかするとゴミでしかないようなものでも気軽に、、

閉院を知った人達から、よく「お寂しいでしょうね」という言葉を掛けられますが、負け惜しみでなく正直なところ寂しいという感情はまったくないのです。建築家になりたかったのに父の意向でやむなく継いだ医業、やっているうちそれなりのやり甲斐は感じていたものの医事紛争の多い産婦人科でいつも抱いていた危機感・不安感、それよりも「わーい、これで辞められるぞ」という気持ちの方が強いのかも。

◯ 今のところ唯一感ずるのは

このように自分の診療所をすっかり明け渡しても大きな感慨はないのですが、今のところ唯一感ずるところがあります。私自身はもう車を運転することはないのですが、娘が運転する車がガレージに置いてありました。今回診療所を手放すに伴いそこに付属したガレージも無くなってしまったため、売買契約の調印前日、車は外の駐車場へ移りました。

家内と娘が近所の駐車場を探し回った結果、中原街道交差点向こう側の三角州のようなところの露天駐車場に決めました。交差点を渡らねばなりませんが、ここなら近いということで。今までマンション1階の屋内駐車場にひっそり駐車していた愛車が、これからは炎天酷暑や風雨にさらされる露天駐車場で耐えていかねばならないのかと思うと、何か胸がつまるような気がします。

調印翌日の早朝散歩、露天に駐められた愛車の姿を横目で確かめながら歩いてきました。ジープとかランクルのような見るからにタフな車ならいざしらず、淡いブルーの外装、深窓のお嬢様のようなホンダ・シャトルだと、ちょっと感ずるものが違うようです。

◯ 今月の歩術

こうして先月下旬から、早朝散歩の時間も院内整理に当ててきました。重い書類をまとめ紐で縛り運んだり、ホコリだらけの段ボールを運んだり、院内整理はまさに格闘技。3週間目にはそれなりに慣れてはきたものの、最初は身体が綿のようになる疲労感を感じるとともに筋力低下、急にめっきり老化したように感じました。私はここ数十年、疲労というものを余り感じたことがなかったのに。

今回の閉院が決定する前、今年の初め頃から感じてきたのは「歩き」に昨年の「中原街道制覇」のような「いくらでも歩けるぞ」感がなくなっていること。寒さで歩きをサボったためかと思っていたのですが、やはり75才は肉体的にもひとつの節目なのかも知れません。「クソっ、ジジイになったな」と思いつつ、院内整理も終わり建物を売却しフリーになった暁には、それなりの体力維持を工夫したいと思っています。

ようやく全ての搬出が終わった翌朝、3週間ぶりに早朝散歩4キロ少々歩いてきました。3週間も歩かなかったので足が大分萎えてしまったかなと思ったのですが、それを意識し用心して歩いたせいかまあまあ快調に歩くことができました。

そしてこれを皮切りに毎日歩くようにしています、仕事をしていた頃は週に4回程度だったのですが。そして7月も下旬に入ってきました。ふと気がつくと「今年は蝉の声が聴こえないなあ」と。さすがに林試の森では蝉の声を聴きますが、それ以外のところを歩いても蝉の声に気がついたことはありません。蝉が冬眠するための地面がどんどん減っているからなのでしょうか。気温も30度前後となっており、普通なら嫌というほど蝉の声が空気に充満しているはずなのですが、、

◯ WRC フィンランド:ついにやったぜ

WRC:世界ラリー選手権、今月末の戦場はフィンランド。トヨタ・チームは監督トミ・マキネンはじめ3人の選手ヤリマティ・ラトバラ、ユホ・ハンニネン、エサぺッカ・ラッピ全員がフィンランド人、トヨタのヤリスWRCの開発もフィンランドで行われ、今回はホームグラウンドでの一戦。

王者オジェが珍しく木に激しくクラッシュしリタイア、オット・タナックもパンクで順位を落とし、ここのところ常勝のティエリー・ヌービルも何か調子が出ない(今回はどういう訳かヌービルを含むヒュンダイのチームはいずれも調子が上がりませんでした。フィンランドの地形がヒュンダイには合っていなかったのか)、という中でトヨタ・チームは絶好調。ラトバラがガンガン飛ばすとともにラッピも早い早い、珍しくハンニネンも一時はトップをとる勢い。終盤近く、ラトバラ・ラッピ・ハンニネンの3人が1位から3位を占め、もしかするとトヨタのワンツースリー・フィニッシュかという場面もありました。

そして何とラッピがトップをとり、僅差の2位でかっとばすラトバラが走行中突然失速。前回ポーランド戦とまったく同様のマシーン・トラブルで戦線を離脱してしまいました。ラトバラの悔しがること悔しがること。かくして惜しくもラトバラを欠くことになってしまったものの、最後の表彰台には1位ラッピ、3位ハンニネンとトヨタが二人も上がることになりました。2位はフォード・フィエスタのエルフィン・エバンス、ハンニネンとは僅差で惜しいことをしましたが、それでもラッピはもちろんハンニネンも初の表彰台でした。

それにしてもラッピの走行は凄かった、ラトバラはいわずもがなラッピの走行はまさに阿修羅のようで他の選手とは異次元の走り、WRCに登場わずか4戦目にして優勝の快挙でした。この春、昨年 WRC2 で優勝したラッピがトヨタ・チームに入ってくると聴いて大いに期待したものですが、予想を大きく上回る人材でした。これからの活躍がとても楽しみです。昨年までのオジェのようになってくれると良いなと、、

他を圧倒する走りもそうですがインタビューを聴いていると、持てる実力をまったく鼻にかけることのない非常に謙虚な応答が素晴らしい。金髪のイケメンで、女の子にはかなり持てそう。でもすでに子供さんがいるような。

◯ 都道26号線の拡張

私の住むマンションの南側は都道26号線。父が終戦直後この道路に面した隣地を購入した際、道路はいずれ拡張される予定で恒久的建物は建てられないと聞いていました(そこに等価交換方式で現在のマンションが建っています)、しかしその後60年を経てもその気配なく、私の生きているうちは拡張されないと思っていました。しかし7年ほど前、突然東京都から拡張の話がやってきました。マンション前は将来の拡張に備え植栽などの余裕エリアとなっており、1階にある私のガレージ前には車2台の駐車スペースがありました。

東京都が拡張部分の土地を買収、すぐ拡張工事が始まるかと思っていたのですが、都有地となったエリアを更地にし枠で囲っただけで5年ほど放置されていました。そして今年になり本格的に拡張工事が始まりました。こうして2車線だった道路は3車線になるとともに、歩道は以前よりやや狭くなったように思います。今のところ街路樹や植栽もないのですが、せめて街路樹くらいは設置して欲しいと思っています。夏場の暑い時、街路樹の日陰があるかどうかで随分違いますから。

写真は拡張工事が始まった頃のもの。黒い部分が元はマンションの植栽部分で最終的な歩道部分。その上の赤茶けた部分が旧来の歩道で車道になる部分。現在は拡張工事完了し、黒い歩道部分だけとなりました。

2008年2月このコラムの表紙 を見ると、マンション前の歩道との間に車を停めるだけのスペースがあったのがわかります。

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1982年ビルに改装した当時の大橋産科婦人科

周囲の環境がかなりさっぱりしてますね