家族

連れ合い

私が26歳の時、叔母の紹介でお見合い。私より3歳下の叔子(旧姓宮崎)と結婚。成城に隣接する祖師谷の実家には、会社を定年退職した父と母、弟。その他に腹違いの兄夫婦がおり、その義姉は偶然、私の産婦人科友達の田中君の奥様と上智大学のワンゲル部で一緒だったとか。叔子も上智大スキー部で私の麻布同級生の後輩でした。

彼女との間に二女二男4人の子供を授かり、不和もなく平穏に過ぎていきました。一番上の長女が小学校1年生、一番下の次男が2歳半の時、突然発現した発作。脳外科受診の結果、視床下部に発生した脳腫瘍により余命1年余の宣言に愕然。手術は受けましたが、部位的に腫瘍の摘出は不可能で試験開頭におわり2年弱にわたる闘病の結果、残す子供たちに心ひかれつつ亡くなりました。享年33歳。

1978年は10年間寝たきりだった父が3月に亡くなり、その12月に叔子が亡くなり、この年わたしは喪主を2度務めることになります。

翌年、産婦人科という仕事を除いてまったく女性には縁のなかった私に思いがけぬ縁があり、久美子(旧姓関口)と一緒になりました。まだ喪も明けぬ時期でしたが、5人の幼子と10年間の看病疲れで弱った母をかかえ、正直なところ差し迫った状況がありました。久美子は私より8歳下の初婚。上智大卒で実家が成城というところなど、先妻と共通するところもありました。

前述したことですが、初恋の彼女に上智大のセントイグナチオ教会で振られた時、神様が「よしよし、良い相手をみつけてやるからな」と上智大卒の叔子を紹介してくれたものの、思いがけぬ病で急逝してしまい「ゴメン、よし今度こそ」と紹介してくれたのが、同じく上智大卒の久美子だったということなのかなと思っています。縁は異なもの、、

長女:志都香

叔子と結婚した翌年の1969年10月に出生。日本女性らしい名前をつけたいなと「しづか」という名前を選び、姓名判断で字画を当てたもの。後から考えると、この年に米国アポロ計画で人類初の月面着陸があり、着陸場所が「静かの海」でした。これが意識のどこかにあったのかも、、

初めての我が子ということで、彼女の小さい頃の想い出は色々あります。初めて発した言葉はテレビ画面の魚を指差して「オトト」。そばに居た妻と顔を見合わせ「しゃべった!!」。当時流行っていた尾崎紀世彦の「また逢うまで」に合わせ両手をチグハグに振る姿、教えもしないのに親の脱いだスリッパをきちんとそろえる姿など、若い親は都度に感激したものです。

やがて田園調布雙葉学園小学校に入学、初めての登校は心配で彼女に内緒でついていくことにしました。武蔵小山商店街を腕の手提げを引擦るように歩く小さな姿をつけてゆき、電車の同じ車両の離れたところから密かに見守る。田園調布駅に無事到着を見届け帰りました。後で妻から聞いたところでは、彼女「今日、電車の中にパパがいたよ」だって。

成人とともに家を離れ会社勤め。そのうち次女はさっさと職場で相手をみつけ結婚したのに、なかなか相手が見つかりそうにない。そんな時、今の連れ合いの久美子が近所の薬局の甥ごさんとのお見合いの手はずを整え無事一緒になることができ、ほっとしました。漢方薬局を営む土屋君との間に男女2児をもうけました。

女:さやか

1971年12月に出生。この前年でしたか、叔子は一度自然流産をしています。「さやか」という命名は「しづか」同様、日本女性らしい名前をということでつけました。無理に漢字を当てるより、ひらがなのままの方が優しい感じが出るかなと漢字を当てなかったのですが、後年、彼女からは「何で私だけひらがななの」と聴かれたそうです。

志都香は目立たなく大人しい性格でしたが、さやかはクリクリっとした目を見開き次女らしく要領のよいところもある子でした。その後あっという間に4人兄弟となりますが、たまたま2人だけで出かける時など「パパを独り占めできる」と思うのか、私の腕に両手ですがりつき歩くのが何とも愛おしかった思いがあります。

成人するとともに家を離れ会社勤め。どういうことで選んだのかわかりませんが、会社は私と以前から結びつきの多かったアスキーでした。アスキーといえば米国マイクロソフト副社長を兼ねるアスキーの西社長が個人で設置したネットワークを見たいと拙宅を訪れ、私の書斎で歓談していかれたことがあります。当時 LAN 設置は まだ珍しかったのです。

やがてアスキーで出会った細川君と結婚。コンピュータ・エンジニアの習いで、彼はやがてサン・マイクロシステムズ社、そして google 、いずれも私の好きな会社へスピンアウト。google 入社後、彼ら一家は米国へ。3人の子供をもうける。

○ 長洋綱

197年1月に出生。今度は男ということで、侍の名前をつけようと思い命名したのが洋綱。上の子供4人は自分の手で取り上げましたが、生まれてきた時の第一印象は「アゴの小さい子だなあ」。

まだおむつが取れない頃、母が亡くなりましたが、その後の久美子とは一番ウマが合ったようです。中学受験にあたっては車に乗せ塾通いなど、よく面倒をみてくれました。学習塾の合宿で喘息発作を起こし、深夜に千葉県鹿島から電話がかかってきて車で迎えに行ったことがありました。

彼は小さい頃から かなりの方向音痴で、小学校就学前にお手伝いさんと近所の公園に遊びに行き、すぐ近くなので一人で帰したところ自宅に到着しておらず大騒ぎになり、近所中探し回ったことがあります。彼が小学校の頃でしたか、家族連れで銀座で食事をしていた時、何かで妻と言い争いになり彼女が席を立って出ていってしまったことがあります。洋綱だけは後を追っていき、私はあとの子供たちを連れ帰宅。大分経って洋綱から電話がかかってきました。ママとはぐれたよし。地下鉄の改札口にいるということで「そこを動くな」と言いおき、おっとり刀で迎えに行きました。電話賃は通りがかりの人にお願いしてもらったよし。

私が建築に進みたかったのに父の言葉で医者になったという経緯があり、子供たちには好きな道に進ませるつもりでした。彼が大学受験の前年末頃「医大を受けようかな」、無理に反対することもないので5人の子供の中で彼だけが医師になりました。私の母校、慈恵医大入学。何期か成績優秀で特待生をとり月謝が無しだったのは有り難かったです。大勢の子供で一番大変だったのが学資でしたから(私は馬術部一辺倒、成績はいまいちでしたが、私の弟も慈恵では特待生で卒業時は恩賜の時計をもらった組です)。私は都内在住卒業生の父兄ということで、彼の入学とともに大学から父兄会長候補を仰せつかりました。

最初は産婦人科になって継承するつもりもあったようですが、内科の勤務医になりました。やがて東日本大震災後の大船渡病院へ赴き、そこの看護師さんと結婚、2児をもうけ、仙台に居を構えました。私は長男として自分の意志と異なる道に進み当然のこととして両親と生活を共にしましたが、現在の世に そのような考えはなくなったようです。仕方ありませんね、、

次男:洋

1974年6月出生。長男同様、侍の名前をつけたいということで、父方祖父「重房」の「ふさ」をもらって洋総としました。

次男とあって、これも要領が良い。モノ作りが好きなところは私を受け継いだらしく、小学校の頃、ダンボールで作った戦艦大和は非常に大雑把ではありましたが、なかなかのものでした。運動神経がだめなのも私ゆずりのようで、小学校では苦労したのかも。

船を作りたいということで東海大学 海洋学部へ進み、卒業とともに香川県の会社へ。卒業すると安価で購入したというマイカーで帰宅。その車とともにフェリーで赴任していきました。大学時代は廃車置場からドアを拾ってくるなど車の修理を楽しんでいたようです。

日本産婦人科医会の医療情報委員会で小豆島へ旅行をした帰り、香川坂出の彼のところへ寄ったことがあります。彼の下宿を見せてもらったり香川名物「うどん」を一緒に食べに行ったり、良い思い出です。

子供たちの中で最もサバイバル能力にたけ頼もしい息子。会社ではレジャーボートやポンプなどを作っているようです。その後、東京へ転勤して結婚。2児をもうけました。

私とは最もウマの合う子で、もっと一緒に呑みたいと思うものの機会がない。

女:七帆子

後添えの久美子との間にもうけました。生まれたばかりの頃は従兄弟の洋澄と瓜二つでしたが、ふたりとも成長とともに変わってきました。名前は久美子が「なおこ」を希望、私が漢字を当てました。森山良子若かりし頃の透き通るような声で歌われた「この広い野原いっぱい」の歌詞2番のイメージから「七つの帆」。私の名前「洋」にも繋がります。

小さい頃から動物が大好きなところは私に似ており、高校卒業とともに獣医をめざすが、獣医大の倍率は医大より狭き門。途端に目標を下方修正して「動物の看護師さんになる」。「なら、人間の看護師さんの方が良いんじゃ」と言ったのですが、結局動物の方に進みトリミングショップや動物病院に勤務。私の自宅近所でトリミングショップを開き、お客やワンちゃんたちから大好評を得ています。好きなことを仕事にできているということについては 幸せで良かったなと思っています。

気立ての良いお勧めの娘ですが、とうとう縁がなく、本人も心を決め独りで通すつもりのようです。親としては心配、、

○ 今にして思うこと

日本が少子化に向かうなか、大橋家はこうしてねずみ算的に子孫を増やしてきました。これは産婦人科医としての私の意図したことでもあります。

今になって思うことは「彼らが手元にいた頃、もっと一人ひとりを慈しんで過ごすべきだった」との後悔。仕事に振り回される毎日だったとはいえ、子供たちが可愛かった頃はあっという間に過ぎ去ってしまうのだなあと、今さら気づいても遅いのですが、、私の人生の中でその20年そこそこの年数は僅かな期間なのでした。

長女の連れ合いは医療関連、次女の連れ合いはコンピュータ・エンジニア、長男は医師、次男はモノ作りの会社、三女は動物関連と、すべて私の好きな方面に進みました。あと足りないとすれば、建築設計かデザイン関連ですが、欲張っちゃいけませんよね。

森繁久彌主演の「七人の孫」というドラマがありましたが、私は九人の孫。こうなると、もう孫の名前も年齢もすぐには出てきません。そう言えば子供たちが小さい頃、急に誰かを呼ぼうとしても5人もいるとすぐにその名前がでてきません。とっさに出任せな名前を呼んでも、ちゃんと本人は自分が呼ばれたことを認識してくれたものです。

私がフェードアウトした後、この子孫たちはどのように過ごし、世の中にどのような成果を残してくれるのでしょうか、、