小学校時代(1)

○ ようやく品川区へ引っ越し

品川区の当地へ新築した大橋産婦人科へ引っ越しできたのは、 私が道塚小学校1年の秋のことでした。 半年足らずの同級生に別れを告げ、 小山小学校へ転入学となりました。

籾木家から猫を一匹もらってきたのですが、 引っ越してきたその日のうちに居なくなりました。 猫は家に着くといいますが、どこへ行ったのでしょうか。 品川区と大田区はちょっと距離があります。 さすがに蒲田の籾木家にはたどりつけなかったようで行方不明のままです。

転校してきたばかりの頃、私の家へ5,6人の同級生がよく遊びに来ましたが、 どういう訳か女の子ばかりでした。モテたという訳でもないと思いますが、 このように女の子の方から集まってきたのは後にも先にもこの頃だけでしたねえ。

○ 小山小学校時代

家から小山小学校へは子供の足でも歩いて10分程度でしょうか。 13Fになった現在は、居間の窓から遠くに見下ろせる距離です。 当時は生徒の数に対し教室数が足らず、午前グループと午後グループで教室を使う二部授業というのが行われていました。 まだ全ての学校の再建がならないうちに、 大勢の子供たちがこの地に帰ってきたからと思います。

小学校の給食は私にとって苦手でした。 石のように固いコッペパンは良いとして、 最も苦手は脱脂粉乳のミルクや、 トウモロコシの粉で作ったスープです。 どちらも独特の香りやざらざらした舌触りがたまらなくイヤでした。 残すと先生が「家へ持って帰りなさい」というので、 アルミの食器に布巾をかけ両手で捧げて持って帰るのですが、 校門をでた途端その脇のドブに捨てていました。後年きいたところでは、米国ではブタなど家畜の飼料だったそうです。

この頃の子供たちの着ているものはどれも粗末なもの、洋服の袖で鼻を拭くもので袖がピカピカに光っている子も珍しくありませんでした。男の子のほとんどは坊主頭でしたが、私はいわゆる坊ちゃん刈り、今考えれば一見して良いとこ坊っちゃんに見えていたのでしょう。

通学途中の道には、 焼け跡に錆びたトタン(亜鉛引きの薄い金属の板)の波板ぶきの家(バラックと呼ばれていた)が いくつもありました。このバラックに住んでいた同級生もありました。しかし、これらはそのうち次第にまともな家に建て直されて行きました。 幼少の頃から建築好きの私も、 自宅庭の塀沿いに廃材でバラックまがいを建てて遊んだりしました。 自分たちの城ですね。

私の診療所は、武蔵小山商店街に面しています。 私の所が商店街アーケードの終端で、 アーケードは武蔵小山駅の近くまで続きます。 現在は出先で雨になっても、 電車にさえ飛び乗ってしまえばあとは傘なしでもアーケードの中を 殆ど濡れずに帰れます。 この武蔵小山のアーケード街は戦後早い時期に復活し、 当時は「東洋一のアーケード」と呼ばれたものです。

しかし私どもが当地に帰ってきたばかりの頃、 まだアーケードの屋根はなく、 店もバラックのようなものが歯抜け状態で並ぶ程度でした。 映画館の正面のコンクリート部分だけが 撮影所のセットのように焼け残っていたのが印象に残っています。 ここはすぐ復活し映画館「大映」となりました(現在は1Fテナントに商店を入れたマンションとなっています)。この近くに「プリンス座」という映画館もありました。

○ 当時の自宅

当時住んでいた家は産婦人科医院と職住兼用の木造2階建て。 1F住居部分は8帖の和室二間のみ、その他に台所、浴室、トイレ程度です。商店街側の半分が外来診療部分になっていました。 2Fは入院患者さんの病室と住み込み職員(看護婦さんとお手伝いさん) で、当時は病室もほとんど和室でした。

新築とは言ってもトイレは汲取式、風呂は薪で炊くタイプでした。 昭和20年前半の世の中、これは当たり前でした。 板塀に添って薪が積んであり、 風呂を沸かすのは時々私の役目でした。 薪の下に新聞紙を丸めたものを入れて火をつけ、 竹の節を抜いた「火吹き竹」でフウフウと息を吹き込みながら 勝手口の風呂焚き口で火の燃え上がるのを見るのは なかなか楽しいものでした。ちょっと煙かったりしましたけどね。

引っ越して1、2年もしないうちに、台所を改装しました。 入院の産婦さんの食事を作るため、もっと能率良く改良したのだと思います。 台所と居室部分の和室との間にガラス戸のついた 作り付けの配膳棚ができました。

ある日、電話が引けた時のことを覚えていますが、 引っ越してすぐではなかったことだけは確かです。 終戦直後はお産を扱う産婦人科医院でも電話がなかったんですね。夜中にお産が始まっても、家族の方が自転車や徒歩で知らせに来たのでしょう。 今では考えられないことです。 早速電話をかけてみたのは、蒲田の祖母のところでした。

○ 職員も家族と一緒

前述のように看護婦さんやお手伝いさん達も皆住み込みで、 食事も住居部分の和室でお膳を囲み職員と一緒に食べるのが普通でした。 それはそれで家族的でなかなか良かったと思います。 庭に卓球台を置き暇な時間に皆で卓球をしたようなこともありました。 「三丁目の夕日」という大変懐かしい映画がありましたが、あれも街の小さな自動車修理工場に職員は住み込みでしたね。 あの頃は地方から上京した働き手が多かった時代、通勤事情も悪いし住むところもなく、どの職種でも住み込みが普通だったのだと思います。

夜になると生け花の先生に来てもらって、 母や従業員が生け花を教わる日がありました。 そんな時、よく父は私たち兄弟を連れ近所の映画館へ行ったりしたものです。 TV もない時代、生け花をやっている和室の隣の八帖で、 父子三人じっとしているわけにも行かなかったからです。 大映は日本の映画、プリンス座は洋画を上映しました。 小学校6年の頃、後に長寿命のシリーズものとなる「ゴジラ」の第一回作を大映で 見たのを記憶しています。ゴジラをやっつけるため発明されたのが、酸素を破壊する「オキシジェン・デストロイヤー」というものであったことなど、懐かしく想いだされます。 その翌年、麻布中学に入ると、早速「ゴジラ」と仇名のついた同級生がいました。ドラエモンのジャイアンのように大きな奴で、 ニキビの跡だらけの顔をしていたためです。野球の松井も同じ理由でゴジラですね。 映画「戦艦大和」も印象に残っていますが、考えてみれば、あれは実際に大和が沈んでからまだ8年しか経っていなかったんですね。

この頃、恐竜図鑑などに見入ったりしましたが、歴史は繰り返すで恐竜ブームはその後何度もありました。

○ ロボット

ロボットにも非常に興味を持ち、 小学校1年の頃のようにロボットの絵を沢山描いたりしました。 父から「ロボットが好きならずっとやってみたら。 何でも一生続ければたいしたものになれる」と言われました。 現在でもロボットは非常に興味のある対象ですが、 残念ながらそちらの道へ進むチャンスはなかったようです。 父が豆電球の目が光る幼児大の木製ロボットを作ってくれたことがありました。 手塚治虫の「鉄腕アトム」が登場したのは、この数年後です。

もしあの頃からロボットに打ち込んでいたなら、今頃はその道で名を成していたはず。

○ 区役所全焼す

自宅の正面、バス通りの向こう側に小学校校舎のような古い木造の建物があり、 区役所に使われていました。 ある夜、これが火事になりました。 外を覗くと大きな炎が間近に見え、 火の粉が降ってきます。 隣家の奥田さんのご主人が屋根にあがって、 盛んにバケツで屋根へ水をかけ延焼を防いでいました。

まだそんなに寒い季節ではないのに、 火を見て無性に全身がガタガタ震えました。 戦時中の爆撃の記憶が残っていたのでしょうか。翌日、父が食事の席で話したことですが、 この夜「大橋さーん、家財道具運ぶの手伝いますよー」と 叫ぶヤカラがいたが、ああいうのは火事場泥棒だから絶対に 乗っちゃいかんと言っていました。

古い木造の建物はよく燃えたようで区役所は全焼、 翌日庭を見ると焼け焦げた書類の断片が沢山風で飛んできていました。 住民台帳など大切なものや、 現在なら個人情報として大問題になるような書類も沢山あったに違いありません。

焼け跡の廃材を片づけた跡にコンクリートの土台だけが残り、 そこに雨水がたまって広い池となり、子供にとって絶好の遊び場となりました。 そこへ子供だけでなく大人も玩具の船を浮かべにきたものです。 ゴムを巻いてスクリューを回すタイプで、 推力で潜水艦を潜らせるのが面白かったですね。 

後年、そこに平塚小学校が建ち、私達兄弟や息子達が通うことになります。現在、その小学校も統廃合で廃校となり、品川区民の公共施設「スクエア荏原」が建っています。